Jリーグは今年、発足から30周年を迎えた。2021年度の営業収益は1240億円で、8年で2倍以上に増えている。その立役者が、2014年にチェアマンに就任し、4期8年務めた村井満さんだ。任期最終年の2021年には、毎週1枚の色紙を用意して、朝礼を開いた。34節34枚の色紙の狙いを、ジャーナリストの大西康之さんが聞く――。(第1回)

プロにならなくても、サッカーが大好きだった

——第1回の色紙は「始動力」。文字通り解釈すれば「始める力」ですね。なぜJリーグチェアマン最後の1年に朝会を始めようと思われたのか。もっと遡れば、そもそもリクルートの役員だった村井さんがなぜJリーグのチェアマンになったのか。この辺りからお話を聞かせてください。

【村井】まあ話せば長い、ということになるのですが。私、埼玉県川越市出身で県立浦和高校のサッカー部でした。ポジションはゴールキーパーです。県大会でベスト4、ベスト8に進むまずまずの強豪でしたが、私自身のプレイヤーとしてのキャリアはそこまで。

2014年にJリーグチェアマンに就任し、2022年3月に退任した村井満さん
撮影=奥谷仁
2014年にJリーグチェアマンに就任し、2022年3月に退任した村井満さん

ただやっぱりサッカーは大好きで、その後、浦和に住んだこともあって浦和レッズの試合を観戦するようになりました。開幕以来、Jリーグの社外理事になるまでは、年間シーズンチケットを買って毎試合行っていましたし、多くのアウェーにも出かけていました。

【連載】「Jの金言」はこちら
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大学を出てリクルートという会社に入りまして。主に人材サービスの仕事をするわけですが、相変わらずサッカーは好きで、1993年のW杯アメリカ大会予選あたりからは仕事をほっぽらかして海外に遠征していました。97年のW杯フランス大会アジア予選では、ジョホールバルで日本代表のW杯出場決定の瞬間を見届けていました。地元の浦和では「Jリーグの理念を実現する市民の会」なるものを作り、そこの理事などをやっていました。

やがて選手のセカンドキャリアを手伝うようになり…

——2008年にはJリーグの理事に就任しています。きっかけは?

【村井】その少し前から、Jリーグ選手のセカンドキャリアというのが問題になっていて。サッカーは選手寿命が短いですから、早ければ20代後半、ほとんどの選手が遅くとも40歳を迎える前に引退します。子供の頃からサッカーしかやってこなかった彼らが、その後、どうやって人生設計していくか。リクルートが就職斡旋のノウハウを使ってお手伝いするようになり、その事業会社の社長だった私が非常勤の理事になりました。