憧憬の原点
バラエティ番組やネットメディアに登場する東大生を見ると、昔ながらのオタク・変人型秀才もいるが、モデルや芸能人と見まがうような好感度の高い人がやたら多い。いまや東大は、各種タレントの供給機関としても十分に機能している。
学業優秀な上にルックスもよく、性格がよくて話も面白い。欠点のなさそうな人物像が、主要5科目のペーパーテストという指標をベースに構築され、大衆に提供される。
かつて丸山眞男は、近代のテクノロジー化が進むにつれて分業がますます進行し、「部分人(パーシャルマン)」が大量に生産されると指摘した(「現代文明と政治の動向」)。
学校に通っている時は何者でもないし、だからこそ何者にもなれる可能性だけはある。しかし、就職する時にさまざまな可能性は捨てられて、分業化に対応した特定職業に従事し、それが人生の大半を占めるようになる。
そのうち、丸山がいったように、「総合的な人格がますます解体して、専門分野では非常にすぐれていても、一般的な総合的な判断力、例えば具体的な政治感覚とか、社会問題に対する感覚の仕方が殆ど子供のように低調」な、不均衡に精神状態が発達した人間になる。
もちろん東大生とて例外ではなく、なんらかの職業人としてその後を生きる。だが、世のおおかたの「部分人」から見れば、まだ何者にもなっていない東大生は、より「全体人」に近い存在ではある。
その前提となる5教科ペーパーテストの成績はあくまでも能力の疑似的な指標にすぎないが、ここに東大への憧憬の原点があるように思われる。
「倒幕」が起きる日は来るのか
かつて大宅壮一は、現代日本社会を徳川時代に置き換え、東大を幕府、その他の国立大学を親藩、早稲田や慶應を外様の大藩にたとえた(『大学の顔役』)。
その伝でいえば、東大に対する挑戦者の闘いは倒幕運動のようなものであった。そして現実には、ほとんどの場合「幕政改革」が倒幕運動を凌駕した。
東大の打倒を企む勢力が勝利する時は、明治維新がそうであったように、それまでの日本が日本ではなくなることを意味する。260年続いた徳川幕府でさえ倒れたわけだから、その日がいつか来ないとも限らない。