「1日24時間、週に7日」社員でいること
青木は、社員をビジネスに参加させるべきだと信じている。彼らを雇用するために、どれだけ資金が必要かを、理解させるためだ。社員はみな、大きな家族の一員だと、青木は信じている。
「制服を着たままコミュニケーションをとるべきだ」
彼はよくそう言っている。
「夕食を一緒に食べ、バーやナイトクラブで一緒に飲むことで、大切な絆が生まれる」
あるときは、社員との夜の会合で夢中になりすぎて、寮に泊まらざるを得なくなった。またあるときは、社員を突然、家に連れ帰って、妻の文子に大変な思いをさせた。余分の食事を急に用意しなければならないからだ。
大晦日には、会社の寮に出かけて、キッチンスタッフを手伝い、寮の社員全員のお節料理を作った。
彼の会社に入るということは、1日24時間、週に7日、社員でいることだと、青木は信じている。
1970年2月、青木は、ドライヴァーの生活の安定をはかる目的で、彼らの妻たちのために、〈婦人会〉を立ち上げた。同社はさらに、家庭内教育プログラムを設定。毎月、外部のエキスパートや、教授、講演者を招き、生活のあらゆる面について、全社員のためにレクチャーさせた。
障害者、病人、妊婦でも絶対に乗車拒否しない
その趣旨は、ドライヴァーの自尊心を高めること。タクシー運転手は社会的地位が低く、尊敬に値しない、という通念を打破する目的だ。当時、タクシードライヴァーの社会的地位はまだ低く、妻は、「夫の職業はタクシー運転手です」と言うのをためらった。
12月、青木は社員のために社内報を発行。さらに、〈大阪万博〉に孤児たちを連れて行く方針を実行した。
1970年の終わりには、青木は京都中でもっとも収益のよいタクシー会社となっていた。
この成功を契機に、翌年、タクシー規制当局が難癖をつけはじめた。
青木は自社のドライヴァーに、出勤時間節約のため、自宅にタクシーを停めさせてやりたいと思った。その許可を、当局に申請したのがきっかけだ。当時、商用車両と非商用車両の区別をする規制が厳しかったので、このような些細な問題でも、解決に1年かかった。しかし、いったん許可が下りると、効率は上がり、MKの事故率は下がった。
1972年4月、青木は「みんなのためのタクシー」をモットーに、障害者でも、病人でも、産気づいた妊婦でも、絶対に乗車拒否しない方針を打ち出した。さらに、深夜から朝六時まで営業する、初の深夜タクシーを開設。社章として「ハートマーク」を採用した。