死の間際に願ったことはすべて却下された

死を意識した道隆は手を打とうとした。3月5日には、伊周を内覧(天皇が裁可する役割で、職務は関白に近い)に就けて政務を譲ろうとしたが、一条天皇は、道隆の病中の内覧しか許さなかった。死の1週間前の4月3日には、関白職を辞して、それを伊周に譲ろうとしたが、やはり却下された。

結局、4月27日に、道隆の弟の道兼を関白にする詔が下ったが、これについて倉本一宏氏は、「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と記す(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。道隆の強引すぎた人事に対する、妹の詮子の逆襲とみることもできるだろう。

しかし、その道兼にも疫病の魔の手が迫っていた。5月2日、天皇に関白就任の御礼を言上するとそのまま倒れ、8日には死去してしまう。内覧の宣旨が道長に下ったのはその3日後だった。道長は藤原氏一門を統括する氏長者にもなり、6月19日には右大臣に就任して、彼の時代の幕開けとなった。

その際、内大臣に据え置かれた道隆の長男、伊周は、それまで身びいきされてきただけに受け入れがたかったようだ。

藤原実資の『小右記』によれば、7月24日には、伊周が公卿会議で道長に「闘乱」するように激しく楯突き、8月2日には、弟の隆家の家人が道長の家人と七条大路で乱闘におよび、道長側に犠牲者が出たという。

法皇を襲撃、天皇の女御を呪殺未遂

だが、翌長徳2年(996)正月14日、伊周と隆家の兄弟は自滅してしまう。『三条西家重書古文書』によれば、この日、花山院が太政大臣だった故藤原為光の家ですごした際、内大臣の伊周と中納言の隆家と遭遇し、闘乱の結果、花山院側の童子2人が殺され、首が持ち去られたとのこと。首を持ち去ったのは、隆家の従者だったようだ。

事件の背景について『栄華物語』で補えば、伊周は為光の三女を恋人にして密かに通っており、一方、花山院は四女に言い寄っていた(それは花山院がかつて溺愛した女御、忯子の妹だった)。ところが伊周は、花山院が自分の女である三女に手を出したと勘違いし、弟とともに従者を連れて花山院を待ち伏せし、院に射掛けて袖を矢で貫通させてしまった、というのだ。

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こうして2人には、法皇を襲撃した嫌疑をかけられたが、それだけでは済まなかった。詮子が重病に陥ったので御在所の床下を探ると、呪詛の道具が掘り出され、伊周の仕業だとされた。加えて伊周は、天皇家にしか許されない「太元帥法」を行うように僧に命じ、天皇の権威を侵害したと告発されてしまった。

その結果、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周は太宰権帥、中納言の隆家は出雲権守へと降格のうえ、即刻配流するように命じることになった。だが、さらに見苦しかったのはその後である。

伊周と隆家は出頭を拒否して、伊周の同母妹である中宮定子の御所に立てこもり、検非違使に乗り込まれると、隆家は捕らえられたが伊周は逃亡。

その後、出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に送られる途中に病気と偽って播磨(兵庫県南西部)にとどまり、ひそかに上京して定子にかくまわれているのが発覚。出家もウソだったと発覚し、太宰府に送られている。

若いうちから甘やかされ、実績がないのに分を超えた出世を遂げたことで、世の中の理不尽を乗り越える耐性が身につかなかったのではないだろうか。