なぜ青年期の自慢話が残っていないのか

昭和的な話ですが、功なり名を遂げたお偉いさんが銀座のバーで話すことといえば、若い頃の武勇伝というケースが思い浮かびます。ところが秀吉の場合、今に語り継がれている出世話の多くは、後世の創作とみられるものばかりです。

黄金の茶室をつくるほど自己顕示欲の強い男ですから、聚楽第や伏見城で大名やその家臣に自分の若い頃のエピソードを誇らしげに話し、それが後世に伝わったとしても不思議ではありません。それがほぼないということは、初期の秀吉は人にいいにくい仕事をこなし、時には倫理的に褒められない行為にも手を染めていたのではないかと考えられます。

秀吉は「陽」か「陰」かでいえば、圧倒的に「陽キャ(陽気なキャラクターの略語、人づきあいが得意で活発な人)」であったことは想像がつきます。ただし、人間には誰しも「陰」の部分があって、若い頃は仕事の面も含めて、「陰」の要素が強かったと考えられます。

世に出てからは「陰」を捨てて「陽」の男として走り始めますが、それでも彼の中にある出自などのコンプレックスを払拭することはできず、天下人になった後もまとわり続けました。

陽キャの光が強かった分、かげの濃さも後年、際立ったのかもしれません。

百姓出身なのに「豊臣兄弟」が優秀だったワケ

秀吉の立身出世を下支えしたのが、弟の秀長です。戦働きから事務的な調整や資金調達までもこなした非常に優れた人物で、最終的には大和・紀伊・和泉に河内国の一部を加えた約110万石余りを領しています。従二位権大納言まで昇ったことから、「大和大納言」と呼ばれました。彼もかなりの立身出世です。

豊臣秀長画像(画像=春岳院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

しかし、気になる点が一つあります。兄の秀吉もそうですが、百姓の家に生まれた秀長が、なぜ武将として有能だったのでしょうか。

この兄弟は明らかに二人とも相当に優秀です。尾張国中村で必要な教育を受けていたわけではなさそうなので、地頭がよかったとしても、謎が残ります。

永禄8年(1565)までの秀吉に関する記録がないので、何をしていたのかはわかりません。信長の家臣としてさまざまな仕事をしていたと思いますが、一つの仮説として、それ以外の時間はずっと学んでいたのではないでしょうか。そういう勤勉さが弟の秀長にもあって、兄弟で切磋琢磨したのでしょう。

とはいえ、机上の勉強だけで天下人までのし上がるのは難しかったはず。そこで考えられるのが人脈、そして実地での“学び”です。秀吉が人たらしだったのは多くの人が知るところですが、若い頃からさまざまな人物と交流しています。