釈迦牟尼が輪廻転生や来世を否定しなかった理由

もしこれが1回限りの単発ゲームならば、相手を裏切ったとしても自白が有利です。自白すれば、釈放か懲役5年ですから。

けれど、これが無限に繰り返されるゲームだったらどうでしょう。相手を裏切って自分だけ自白すれば、次の回で仕返しされるかもしれません。そのため、互いに黙秘して2年に収めるのが妥当です。

これを、人の生死に当てはめて考えてみましょう。人生が1回限りの単発ゲームだとわかっているなら、周りを蹴落とし、自分の寿命が終わるときに利益を最大化できれば「勝ち」です。

でも、人生が1回限りなのか無限繰り返しゲームなのかは、わかりませんよね。そうであれば無限に繰り返すものだと仮定して、一人勝ちではなく、かといって自己犠牲の精神でもなく、自分と他者の利益を等しく考えて協力し、妥協点を見つけたほうが、戦略としては有利なわけです。

釈迦牟尼が輪廻転生や来世を否定しなかったのは、人生が無限繰り返しゲームであると仮定したほうが個人の人生も社会もうまくいく、という可能性に気づいていたからではないかと、私は考えています。

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どちらと仮定して生きるほうがより良い結果につながるか

この輪廻転生について、私が好きなエピソードを紹介します。私が直接教えを受けた、チベットの転生活仏(※)から聞いた話です。

その僧侶は、仏教が好きだというヨーロッパの男性から「仏教はとても合理的だから好きだと思っていたのに、迷信のような輪廻転生が含まれていることが許せない」と言われたそうです。

このとき、僧侶はどう答えたか。「輪廻の存在を証明できないことは認めましょう。ただ、輪廻が『存在しない』ということも証明できないのではないですか? たとえ科学の立場からでも」「たしかに」とうなずく男性に、僧侶は続けます。

「では、輪廻が存在すると仮定して来世の報いを恐れ、『いい人』として生きることと、来世が存在しないと仮定して好き勝手に生きること、どちらが有利だと思いますか?」

男性はしばらく考え、こう言いました。

「輪廻が存在するのと存在しない確率は50:50だから、存在する前提で生きたほうがトータルで有利だし、仮に存在しなかったとしても、周りを助けて『いい人』として生きるほうが豊かな人生になるだろうな」

こうして、仏教で輪廻転生が否定されていないことを納得したといいます。

世の中には、わからないことや証明できないことがたくさんあります。わからないけれども、どちらと仮定して生きるほうがより良い結果につながるか。この考え方こそ、仏教を現代に実装して生きることに他なりません。

輪廻を受け入れがたい方もいるでしょうが、仮に現世だけを見ても囚人のジレンマのロジックから、一つの判断が目の前のことだけでなく先々にも影響することは間違いないようです。

「良い行いは回りまわって自分に返ってくる」という言説はけっして精神論ではなく、合理的な法則であるように思われます。