幸せに生きるにはどのような精神が必要か。僧侶の松波龍源さんは「仏教ですべてのものごとは、自分の認識によってのみ成り立っているから、利他を考えるには起点を『私』にしなければいけない。つまり、日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえない」という――。

※本稿は、松波龍源『ビジネスシーンを生き抜くための仏教思考』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

日没時にオフィスで働く人
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利他のために、まず「私」を考える

現代でもよく使われる「利他」という言葉を仏教的な意味で理解するには、仏教の基礎的な世界観を把握しておく必要があります。

まず、仏教で利他を考えるときには「私」を起点とします。他者の利益を考えるのになぜ「私」目線なのかと、不思議に思う方もいるかもしれません。

しかし、思い出してください。すべてのものごとは、自分の認識によってのみ成り立っているのでしたね(唯識)。「あの人にとって、私はこういう存在だ」と思ったとしても、その認識は「私」のもので、他者の認識は推量することしかできません。

しかも万物の本質は「空」であり、あらゆるものは縁起であって、目の前の現象は因果関係の結果として、自分の心というスクリーンに映写された像のようなもの(中観)。その像に、「私」が自分の認識で意味づけをしているのです。

つまり言葉で「利他」「他者」といっても、その認識は自分の中にしかありません。だから利他を考えるには、起点を「私」にしなければいけないのです。

では、その「私」とは何なのでしょうか。「私」の存在は他者があって初めて成立します。なぜなら、全宇宙に自分しかいなければ「私」は認識されないし、そもそも「私」の概念も必要ないからです。

この時点で、【私=「私以外のすべてのもの」ではないもの】という等式が成り立ちます。

仏教は関係性の哲学です。あらゆるものは、因果関係・相対関係がなければ「空」からこの世界に現出することができません。「私」も、自分以外の他者との関係があるからこそ特定されるのです。

すなわち「私」を含めたあらゆる存在は、それ以外のすべてのものに担保される事実がある。「私」と他者は、相互依存関係にあるのです。このように考えると、先ほどの等式から一歩進んで【私=私以外のすべてのもの(他者)】ということができます。

なんだか不思議な等式が出てきましたが、この等式は「釈迦牟尼が『こうだ』と言ったから」という宗教的な“教え”ではなく、論理を積み上げた結果として導かれた、客観的な一つの視座であるということが、おわかりいただけたと思います。