自己犠牲は利他ではない

この等式を前提に、もう少し現実的なレベルで考えてみましょう。

すべての生命は「より良く」「有利に」生きようとします。これは、理屈ではなく根源的に備わっている本能のようなもので、生まれた瞬間に「ああ死にたい」と思う命はないはずですよね。

人間であれば、幸せを求め、苦痛から離れようとします。根源的な本能ですから、「私」も他者も、誰もが幸せになりたいという欲求を持っていることになります。

ここで、先ほどの等式を思い出してください。【私=私以外のすべてのもの】とイコールで結ばれているので、「私」の幸せのための行為は他者の幸せにもなるし、他者の幸せは「私」の幸せにもつながります。

利他的な発想や行為が良しとされるのは、この論理があるからです。大乗仏教は、自利と利他が両立した状態「自利と利他の一致」を理想としています。

ですから実は、日本で美徳とされがちな自己犠牲や滅私奉公の精神は、本来の仏教的な意味では利他といえません。なぜなら、自分が犠牲になったら、自分とイコールでつながる他者も犠牲になってしまうからです。

仮に自己犠牲による利他が成立しているように見えても、それは一時的な場合で、長期的にはバランスが崩れてしまいます。

反対に、他者を犠牲にして自分の利益だけを考える我利我利亡者も、論理的にあり得ません。

自分が幸せになりたいのであれば、自分とイコールでつながっているすべての他者の幸せを考え、その実現のために判断・行動する。これが、大乗仏教における利他の真理です。

レストランで元気に働く笑顔の女性
写真=iStock.com/koumaru
※写真はイメージです

自分以外の他者が消滅すると、自分も成り立たなくなる

このように話すと「では、自分と他者を区別せずに考えるのですか?」という質問をいただくことがありますが、区別すべきかどうかは場合によって異なります。

仏教では、さとりの境地やその真理を「勝義諦しょうぎたい」、世俗一般の世界やその真理・真実を「世俗諦せぞくたい」といいます。しかし耳慣れない言葉なので便宜上、本書では西洋哲学の形而上、形而下という言葉を使います。厳密に一致しているわけではありませんが、おおむね「勝義諦≒形而上」「世俗諦≒形而下」として差しつかえないでしょう。

形而上世界(さとりの世界)と形而下世界(私たちが生きる現実世界)は一緒にしてはならず、分けて考える必要があります。

まず、形而上世界はさとりの境地であり、「空」の世界ですから、先ほどお話しした通り「私」と「私以外のもの」に区別はありません。すべてのものは関係性で成り立っており絶えず変化していくので、自分以外の他者が消滅すると、自分も成り立たなくなります。

自分と他者に本質的な区別を見いだすことはできない、「あれ」と「これ」が違わない、というのが、形而上の真理です。

一方、私たちが実際に生きている形而下世界においては、私とあなた、コップとマイクなどと、それぞれの存在が物質レベルで区別されますね。

形而上では区別しないけれど、形而下では区別する。このように形而下と形而上は分けて考える必要があるのですが、両者は別個に存在しているのではなく、互いに矛盾しつつ、それでいてぴったり一致しています。

目の前のものは、形而上(空)を本質とし、因果関係の作用の一つの現れとして形而下に存在するのであって、形而上の真理の現れでもあるからです。

それゆえに仏教では、形而上でも形而下でも、そこにあるものに価値の優劣はないと考えます。