小さな虫を弾き飛ばしてはいけない理由

ですから、ときどき耳にする「この世は虚像の世界だから意味がないんだ」「真理が『空』なのであれば、私たちが生きる形而下世界には価値がない」というような言説は、正しくありません。

たしかに「私」は、目の前にいる牛やカマキリとは別の存在です。しかし本質は「空」で区別されないこと、そしてその価値に優劣がないことを合わせて考えると、「ただの虫けらだ」と指で弾き飛ばすなどの行為は、やはり慎むべきでしょう。

「触角を抜いたらどうなるんだろう」と興味本位でいたずらをしてしまった子ども時代を、今は深く反省しています。

木を見る父と息子
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たとえ小さな生き物でも、自分と同じように「より良く生きる」という本能を持っており、その本質(空)は自分と平等なのだ。私たちに問われるのは、この認識を持って他者に向き合えるかどうかではないでしょうか。

しかも、他者と向き合っている自分も「空」であり変化するので、そのときどきの状況や環境、他者との関係に応じて、何をすべきかを判断しなくてはいけません。

このあたりが、仏教の厳しいところだと感じます。唯一絶対の神がいる宗教であれば、「神様が言ったこと」を絶対的な行動基準にすればいいでしょう。

しかし仏教はそうではなく「あなたが自分の責任で判断し、行動しなさい」と言うのですから、厳しいですよね。けれども、まぎれもない真理でもあります。

そのときに正しい判断ができるよう、私たちは智慧をつけなければいけません。先人が積み上げてきた知の体系や身体を使った修行は、そのためにあるのです。

すべてのものは関係性のネットワークで成り立つ

現代の日本で利他といえば「利他的な振る舞いをすれば、回りまわってメリットが自分にも返ってくる」といったところでしょうか。「情けは人のためならず」ということわざもあります。

資本主義社会における即物的な考え方のように思うかもしれませんが、仏教的な意味の利他とも、おおむね同じように使われていると私は感じます。

これは、弘法大師がもたらした密教の曼荼羅で説明することができます。曼荼羅を再度、ごく簡単に説明すると、すべてのものは関係性のネットワークで成り立ち、「私」という認識主体がそれを認識していることを示す模式図のようなものです。万物の根源的な本質はネットワークそのものであり、それは常に揺れ動いていると考えます。

この論理に基づくと、「私」も他者もネットワークの一部で、大きな構造体を構成する結節点の一つだと考えることができます。

ということは、他者という結節点にポジティブな働きかけをすれば、その影響はネットワーク全体に及び、同じネットワークの結節点の一つである自分にもポジティブな影響があるというわけです。

これは、「利他的な振る舞いをすれば、回りまわってメリットが自分にも返ってくる」という現代の一般的な使い方とよく似ていますね。

ただ、それをあまりにもツール的にとらえて自分の利益を目的にしすぎると、「自利と利他の一致」ではなく、自利が勝ってしまいます。すると全体のバランスが崩れたときに、かえって自分に悪影響が及ぶことにもなりかねないので、気をつけたいところです。