笠置が人生のどん底にいたときも二人三脚で曲を発表

笠置が妊娠し、恋人・吉本エイスケが亡くなり、娘・ヱイ子を一人で育てる決意をしたときは、服部に「センセ、たのんまっせ」と懇願。笠置の苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうという服部の思いから、敗戦の悲嘆に沈む日本人の力強い活力につながる歌『東京ブギウギ』が生まれた。また、美空ひばりや江利チエミなど、若い才能が台頭してきたときには、笠置の相談を受け、服部作曲の笠置の曲を歌うことを笠置と共に禁じているし、二人はあらゆる場面で二人三脚として歩んできた。

笠置は自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)で「私と服部先生の関係はいまや人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない間柄で、独立してから十年間に先生以外の作曲者のものはたった二曲しか歌っておらず、今後の私の死命も先生の掌中にあるといってよいのです」とつづっているほどだ。

写真=毎日新聞社/時事通信フォト
マイクの前で歌う笠置シヅ子、1949年

親密すぎて男女の仲ではないかと誤解されたことも

笠置が歌手を引退するとき服部が絶縁宣言をしたかどうかは笠置、服部両者の自伝には記述がない。また、ドラマでは第17週にスズ子が愛助(水上恒司)と結婚するため、歌手をやめると言い出し、それに対して羽鳥が「君が歌手をやめるなんて、僕が音楽をやめるようなもんだよ!」と猛反対するくだりが描かれており、二度目のスズ子引退大反対&羽鳥の駄々こねとなったわけだが、実際の笠置と服部の仲も、それに近い親密度だったと思われる記述が笠置の自伝に見られる。

二人がコンビを組み始めた帝劇時代には、部屋が少ないことから、服部がいつも笠置の楽屋にいて、スタッフ会議で「笠置君がやめるなら僕もやめさせて貰う」と言ったことから、笠置と服部の仲が誤解され、ゴシップの種となったエピソードを挙げ、笠置は「幕内の経験が浅いのと、芸術家肌の直情から先生の失言となってしまった」と振り返っているのだ。

実際、1950年代にはブギは下火となっており、キューバのペレス・プラードなどによって世界的ブームとなったマンボが日本にも広がると、笠置&服部も1955年に「ジャンケン・マンボ」「エッサッサ・マンボ」を発表する。しかし、笠置のマンボは注目されなかった一方、美空ひばりの「お祭りマンボ」(52年)、江利チエミの「パパはマンボがお好き」(55年)、雪村いづみの「マンボ・イタリアーノ」(55年)がヒット。時代はすでに三人娘の人気へと移行していた。