笠置シヅ子が1956年の紅白歌合戦後に歌手引退したのはなぜか。笠置の評伝を書いた砂古口早苗さんは「引退の理由を『太ってきたから』とも語った笠置。自分のあとを追いかけるスターたちの若さには勝てないと気づき、歌って踊る歌手としての限界を悟ったのではないか」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

一世を風靡したブギが下火になり「三人娘」のマンボがヒット

歌謡界では昭和20年代後半にブギが下火になり、世界的ブームとなったマンボが日本でも大流行すると、いろんな歌手がマンボの曲を歌った。笠置も1955年に「ジャンケン・マンボ」「エッサッサ・マンボ」(ともに服部良一作曲)を吹き込んでいる。だが、ブギの女王・笠置のマンボは注目されなかった。

ヒットしたのは美空ひばりの「お祭りマンボ」(1952年)や江利チエミの「パパはマンボがお好き」(1955年)、雪村いづみの「マンボ・イタリアーノ」(1955年)だった。時代はすでに三人娘の全盛期となる。1956年にはキューバからペレス・プラードが来日している。レコード業界も技術革新が進み、それまでのSP盤からLPやEPシングル盤に切り替わる。

1956年1月、日劇「ゴールデン・パレード」。3月、日劇「たよりにしてまっせ」(主演はミヤコ蝶々、南都雄三)の公演を終えた後、突然、笠置は舞台活動を停止した。実はこの1956年は笠置シヅ子の謎の年で、それまでから一転して活動が激減し、空白の1年といってもいい。笠置の活動を前年までは追えたが、56年の彼女の資料がそれまでより極端に少ないのである。ラジオ出演や雑誌のインタビュー記事がいくつかあるが、舞台や映画などの活動をほとんどしていないと思われる。

引退2年前の笠置シヅ子
引退2年前の笠置シヅ子(写真=『アサヒグラフ』1955年12月7日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

笠置シヅ子の歌手引退前の「空白の1年間」とは?

1956年春、「ジャジャンボ」「たよりにしてまっせ」の2曲を吹き込み、これが笠置の最後のレコードとなった。12月31日、第7回NHK紅白歌合戦に出場して大トリを務め、「ヘイヘイブギー」を歌う。そしてこれが“ブギの女王の花道”を飾るものとなった。この年のいつの時期かは不明だが、笠置は歌手を辞める決意をしたのではないかと思われる。

笠置は後に、「それまで『歌う喜劇女優』として望外の知遇を得たが二足のわらじを履くことを断念した」と述懐している。そう割り切るまでには苦悩もあったと正直に述べていて、それがちょうどこの年だったことになる。

1957年早々、笠置は「歌手を廃業し、これからは女優業に専念したい」と公表した。1956年の空白の謎が、これで氷解した。

歌手廃業の理由を笠置ははっきりとこう述べている。

「自分が最も輝いた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」いかにも自分に厳しい笠置らしい理由だ。一度こうと決めたら切り替えは早く、しかも頑固だ。その発言どおり、ブギの女王・笠置シヅ子はスポットライトから静かにフェードアウトした。

歌手廃業の理由を笠置は後年、自分が太ってきて踊れなくなったからだと述べている。笠置の声は肉体と一体であり、笠置の歌は踊りと切り離せない。踊れなくなると、「歌って踊るブギの女王・笠置シヅ子」ではなくなる。自分に厳しい笠置はそう考えたのだろう。