勝ったとしても、払う犠牲が大きすぎる

武田勝頼の話をもう少しつづけると、彼は父・信玄が生きているときに落とすことができなかった遠江国とおとうみのくに(現・静岡県西部)の高天神たかてんじん城を落とすことに、執着しました。

高天神城は要害堅固で、攻めにくい山城です。信玄がこの城を落とすことにこだわらなかったのは、戦略的価値が低かったからでした。

ところが、1574年(天正2年)5月、勝頼は2万5000の大軍を擁して、高天神城を急襲します。

無理押しの力攻めで、味方に千人を超える死傷者を出して、一カ月という期間をかけ、ようやく城は落城しました。

しかし後年、高天神城が徳川軍に攻められた際、勝頼はほぼ見殺しにしてしまいます。山城で援軍を送りにくかったことに加え、敵に取られたとしても武田軍としては、戦略的に不利にはならなかったからです。

けれども武田の家臣たちは、犠牲をいとわず手に入れた城を、簡単に見捨てる勝頼に不信感を抱きました。

このときの勝頼の振る舞いに不満をいだいた武将たちは、次々と彼の許を去っていったのです。

勝つ必要のないところで、勝ちにこだわるあまり、家臣の気持ちに気づけなかった勝頼は、信玄の「五分の勝ちでよい」とする教訓の真意を活かすことができませんでした。

写真=iStock.com/mura
※写真はイメージです

逃げ道を一方向だけ残しておいた

一方で、「五分の勝ちでよい」=勝ちすぎてはいけない、という考え方は、時代を超えて受け継がれています。

山崎の合戦で敗色が濃くなった明智光秀の軍勢は、一時、青龍寺せいりゅうじ(勝龍寺などの別名あり)城に退いたのですが、急追してきた羽柴秀吉は、城の一方向をわざと空け、明智勢をそこから散らして、勝利を確かなものとしました。

また幕末、官軍と旧幕府軍が江戸で戦った「上野戦争」(1898年・慶応4年)で、官軍を勝利に導いた大村益次郎も然りでした。

大村は、上野の寛永寺に立て籠もる旧幕府方の彰義隊を、わずか半日余りで倒しましたが、決して完勝をめざしたりはしませんでした。彼もほどほどの勝ちでよい、と考えていたのです。

彰義隊に対して、大村は追いつめすぎず、奥州へ通じる北の逃げ道を用意していたのです。

寛永寺を三方向から攻めた官軍ですが、大村は根岸方面の一カ所だけはあえて兵を配置せず、敵の退路として開けていたのです。

「逃げたい者は逃げればいい」と暗に、彰義隊に示したわけです。

敵を追い詰めると、死に物狂いで反撃してきます。最終的に勝ったとしても、こちらも相応の犠牲を払うことになりかねません。

五分、あるいはせいぜい七分の勝ちをめざした秀吉や大村は、やはり名采配者といえるでしょう。