兵の強さに依存しない鉄砲に執着した信長

一方の織田信長の反応は、信玄や謙信とは違うものでした。

信長からすれば、尾張の弱兵でまともに戦っても勝てる確率は低いため、兵の弱さをカバーできる戦術を、つねに考える必要があったからです。

ひとつは、前述した一年中稼働できる正規軍をつくり、しつこく攻めつづける方法ですが、武田や上杉のような強兵集団には時間がかかりすぎます。

そんな中、兵自体の強弱はほとんど関係のない鉄砲に、信長は新たな可能性を感じたのでした。

もちろん、鉄砲には欠点が多いことも承知のうえです。が、他の可能性がなければ、信長は鉄砲に執着するしか方法がなく、自力で鉄砲の性能をアップグレードしていきました。

雨の日でも使えるように火縄の部分を傘付きにし、火薬の装填そうてん時間を短縮するためにカートリッジ式に変更しています。命中率や連射性を高めて、武器としての性能を上げていったのです。

ちなみに、日本に鉄砲が入ってきたときには、一丁が現代の価格で2千200万円以上だった鉄砲の値段が、信長が量産と改良に努めたおかげで、信長の晩年には50万円台にまでコストダウンすることができるようになりました。

関ヶ原の戦いでは、すべての大名が鉄砲を使うほどに普及していたのです。

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兵が強い立花宗茂も、鉄砲の改良に熱中した

鉄砲については、生涯無敗の武将・立花宗茂も積極的に採り入れていました。

信長と違い、最強の兵を率いていた宗茂ですが、その勢力は柳河に13万石程度の、まだまだ小さなもので、どうすれば大軍を効率的に倒すことができるか、彼はつねに新しい戦術を研究していました。

そして信長同様に、鉄砲に技術的改良を加えて使用したのです。

実際、宗茂は関ヶ原の戦いの際に、西軍の将として、東軍に寝返った近江国おうみのくに(現・滋賀県)の大津おおつ城主・京極高次きょうごくたかつぐを落としに出撃しましたが、開城にいたった勝因は鉄砲の連射速度にありました。

宗茂の鉄砲隊は、敵が一発撃つ間に三発撃つほど速射性に優れていたといいます。

カートリッジ式の火薬と弾丸を首にぶら下げていて、これを次々に装填して、連射したというのです。

兵の弱い信長と小勢力の宗茂は、兵同士がまともにぶつかり合うのを避けて、飛び道具を使って効率的に勝利を手にしていたのでした。

新しいものを目にしたときに、使ってみたいと思う人と、今まで通りでいいやと考える人がいます。

割合的には後者の人の方が多いように思いますが、戦術においては、新しいものを試そうとする積極性が必要なようです。

新しいものはまだ粗さが残る場合もありますが、信長や宗茂のように工夫し、磨いて、改良して完成度を上げていけばいいのです。