美濃南部の豪族、国人が信長の軍門に下った理由
尾張との戦場は、いわゆる国境が主戦場となりますので、美濃の方では南部が中心──。
いざ尾張の傭兵が攻めて来たとなれば、美濃の南部の人はすぐさま対応しなければなりませんが、中部や北部に住む人たちはその都度、兵を引き連れて、遠路をはるばる応援に出向かなければなりません。
一度や二度ならまだしも、何回、何十回も戦場まで出向くには労力がいります。
戦えば勝ちますが、そのための戦費は自前です。次第に不満がたまってきて、「国境の領地の連中だけで戦っても、十分勝てるだろう」と言い出す者も出るようになりました。
そもそも美濃の中部や北部は、織田方に攻められていないので実害がありません。
それなのに、防衛戦に何度も呼び出されて、下手をすれば生命を落とすかもしれず、その間、田畑の管理も疎かになります。
次第に、南部からの援軍要請に応じる人数が減っていきました。
そうなると、美濃南部の人たちは大変です。彼らは自分たちの土地が織田方に奪われかねないため、つねに戦わざるを得ません。戦えば勝つのですが、尾張の侵攻はいつ終わるかわかりません。ついには、心が折れる人々が出始めました。
「いっそのこと、降参して織田家についた方がラクなのではないか──」
ある日を境に、まるでドミノが倒れていくように、次々と美濃の南部の豪族、国人たちは信長の軍門に下っていきました。
美濃を治めていた斎藤氏の勢力はその分、一気に弱まり、ついに残りの地域にも織田家の調略の手が伸びて、信長は美濃を手にすることができたのです。
信長は兵が弱いというハンデを、見事に克服しました。
兵が弱いのなら、一度や二度の戦いで勝とうとせずに、何度跳ね返されても攻めつづけられる体制を整えればいい、と考えて、しつこく、あきらめずに攻勢をくり返したのです。
質で勝てないなら、量で勝負する。迷惑に感じるほどつきまとう、というのも、弱者逆転の立派な戦術ではないか、と筆者は思います。
信玄も謙信も、「鉄砲」は使えないと思っていた⁉
飛び道具を使う
織田信長がいち早く鉄砲に目を付けて、戦場で活用したことは皆さんもご存知の通りです。
前述したように、兵が弱いという弱点を補うために、信長は飛び道具である鉄砲を導入し、軍団の兵力を増強しました。
しかし、これほど強力な兵器を、なぜか他の武将たちは信長同様には採り入れていません。なぜだったのでしょうか?
その理由は、鉄砲は戦場では使い物にならない、と広く思われていたからでした。
たしかに当時の鉄砲(火縄銃)には、多くの欠点がありました。
・命中率が低い
・射程距離が短い
・一度撃つと、次の弾を込めるのに時間がかかる(銃身が熱せられて、すぐには使えない)
・雨の日には役に立たない
これだけ欠点があれば、生命のやりとりをする戦場で使うのを、ためらうのもわかります。
事実、信長より一世代前の武田信玄も上杉謙信も、「鉄砲? こんなものは戦場では役に立たない」という反応でした。
彼らの騎馬隊は、仮に敵が鉄砲を撃ってきたら、一発目は馬上で片手に持つ竹の束を盾にしてそれを防ぎ、二発目を撃たれる前に、突っ込んで馬上、敵の首を斬り飛ばしていました。
武田軍には“石つぶて”を投げる部隊もあったので、そちらの方がはるかに鉄砲より役に立ち、コストもかかりませんでした。