尾張の兵は弱い! なのに信長はなぜ、強い?
信長の合戦といえば、桶狭間の戦いや、馬防柵を設けて3000挺の鉄砲隊で、武田の騎馬隊を打ち破った長篠・設楽原の戦いなど、鮮やかな大勝利を思い浮かべる人が多いはずです。
さぞ信長は、屈強な部隊を率いていたのだろう、と思われているかもしれませんが、実は信長の地元・尾張の兵は、弱いことで全国的に有名でした。
その証拠に、信長は尾張国(現・愛知県西部)の隣国である美濃国(現・岐阜県南部)を領土にするまでに、実に7年間もかかっています。
なぜなら、美濃の兵は屈強で、尾張の兵はとにかく弱かったからです。
尾張の兵が弱かったのは、土地が豊かだったからでしょう。田畑から豊かな収穫があるので、他国と戦って土地を奪う必要がなく、全体的に温暖でのんびりした雰囲気に包まれていたのが尾張でした。
一方で美濃国は、尾張ほど土地が豊かではないため、兵たちはつねにハングリーであり、食べるためには戦って、他領を奪い取る以外に方法がなかったのです。
――信長が率いた兵が弱かったというのは、意外かもしれません。
しかし信長は悲観せず、弱いなりにどうすればいいか、をつねに考えていました。
彼は尾張の兵の弱さの原因でもある、“土地の豊かさ”に注目しました。海もあるため、伊勢湾貿易で大きな収益をあげているのも尾張国でした。
つまり、資金力は豊富であったわけです。信長はそのお金を弱い兵をカバーすることに使おうと考えました。銭で兵を集める――いわゆる、傭兵部隊を結成したのです。
専属の家臣団を形成し、何度も攻めつづけた
信長は潤沢な資金を使って、足軽を次々に雇い入れ、専属の家臣団を結成しました。実はこの手法は、従来の戦のやり方を根本的に変える画期的なアイデアだったのです。
当時、合戦でかり出される足軽は、兼業農家の人々がほとんどでした。
ふだんは農作業に従事し、合戦となれば武具を身につけて出陣します。
今で言えば、業務委託のような形態で、必要に応じて出社するわけです。
合戦の度に、兼業農家がかり出されるのは何処も同じなので、稲刈りや田植えの時期になると、自然と争いは休戦となりました。農業の繁忙期に、戦などやってられるかというわけです。
しかし、信長が雇ったのは農民ではなく、諸国を食いつめた専業の足軽です。
農閑期も繁忙期も、彼らには関係ありません。
ですから通年で、いつでも出陣できるようになったのです。
兵の弱さを、手数を出すことでカバーするという、信長の画期的なアイデアがここに生まれたのでした。
とはいえ、美濃の兵は強いので、攻め入ってもすぐに追い返されます。
しかしそんなことは、信長も百も承知であり、やられてもやられても新規の足軽を補充して、ひたすら美濃を攻めつづけました。
美濃の兵がいくら屈強でも、何度も何度も来られたらケガもしますし、疲れもします。
信長の軍はイナゴの大群のごとく攻め寄せてきて、追い返しても追い返してもキリがありません。
そのうえ困るのは、領土防衛戦のため、国主の斎藤氏から恩賞をもらうことができないのです。つまり、タダ働きをしていることになります。
その結果、美濃の内部で分断が起こりました。