平安京を離れ、父為時と越前に下る
待望の越前守になった為時は紫式部を伴い、越前国に下る。
同じ頃、筑紫(福岡県)の任地に向かう父親に伴って下る友人は、紫式部に歌を寄越した。
これに対し紫式部は、
(西に向かう月という好便に託して、貴女への手紙の絶えることがありましょうか。雲の往来する道によってお便りいたしましょう)
紫式部(『紫式部集』)
と詠み送り、慰めるのであった。
紫式部が越前国府のあった武生(福井県越前市)に下ったのは、二十四歳頃である。愛発山を越えて敦賀に出、北陸道を越前に下った紫式部は、僻地と雪にすっかり辟易した。
平安京が恋しい
雪山を造って人々が登り、「雪が嫌でも、やはり出ていらっしゃって御覧なさい」と言われて、紫式部は、
(雪山が、ふるさとの都に帰る時に越えるその名も鹿蒜山であるならば、心も晴れるかと出て行って雪も見ましょうが、そうでないから見たくないわ)
紫式部(『紫式部集』)
と詠むのであった。「帰るの山」に「鹿蒜山」を掛ける。西へ向かう友人は、下向する紫式部をこう歌って慰めた。
(時が来れば誰でも都へ帰れますわ。貴女の行く越には、その名も帰る山があるの。でも五幡という所もあるのね。いつはた、本当にいつまた帰ることができるのかしら。遥か先のことね)
筑紫へ下向した人(『紫式部集』)
敦賀を出ると、北陸道は五幡(敦賀市東部)から鹿蒜山(福井県南条郡南越前町の木ノ芽峠)にかかる。五幡も鹿蒜も、都下りの歌人の心を汲んでその名を付けたわけではない。
それにしても、五幡・鹿蒜で「いつはた(いつまた)、帰る」とは掛詞としては、実に良くできているではないか。北陸道の国司にとっては望郷の慣用句だった。
清少納言が「山は」として、「五幡山。鹿蒜山」と並べ、その後に続けて「後瀬山」を配する。後瀬山は福井県小浜市にある山で「後の逢う瀬(後に逢う時)」と掛詞として常用される。「いつはた帰る。後の逢う瀬を(いつまた帰ることができるだろうか。後の逢う瀬を期待して)」(『枕草子』「山は」段)と巧みに並べているのは、上出来だ。