天守の3分の2はニセモノ

現在、日本各地には90を超える天守が建っているが、はっきりホンモノだと呼べるものは、じつは3分の1にも満たない。

前述したように、戦災で天守を失った都市では戦後、復興のシンボルとして天守を再建する動きが活発化した。ただ、空襲などの記憶がまだ生々しい時期だったので、二度と焼失せず、ずっとその地にそびえてほしいという願いから、耐火性能を優先して木造は意識的に避けられた。戦後に定められた建築法規により、木造建築への制限が大きくなっていたという事情もある。

ただ、天守を地域振興の中核にしようと考える自治体は、戦災で天守を失った自治体だけではなかった。城は人を呼べるとなると、城下町から発展した都市の多くが、鉄筋コンクリート造の天守を建てて観光誘致のシンボルにしようと考えたのだ。

だが、熊本城や会津若松城のように、古文書や絵図、鮮明な写真などが残っている城はいいとして、そうでないところにまで天守が建った。「復元」どころか「復興」や「再建」ですらないところも少なくなかった。つまり、天守がなかった城に天守を建ててしまったのである。

筆者作成

ニセモノが国の登録有形文化財に

富山県富山市は空襲で50万発以上の焼夷しょうい弾を浴び、市街地の99.5%が焼失した。それだけに、昭29年(1954)に富山城址公園で開催された富山産業大博覧会にかける県や市、産業界の意気込みはかなりのもので、3億5000万円を投じて富山の近代都市としての復興がアピールされた。そのシンボルとして富山城に建てられたのが、鉄筋コンクリート造の三重の天守だった。

外観は犬山城や彦根城など現存天守を参考にデザインされたが、なぜ他所の城を参考にしたのか。富山城には天守がなかったからである。

富山市郷土博物館(富山城復元模擬天守)(写真=掬茶/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

富山城は金沢の前田家の分家が城主を務めた城で、江戸時代に描かれた複数の絵図にはいずれも天守が描かれていない。『万治四年(1661)築城許可書』には天守の建設計画が記され、建てることが検討された形跡はあるが、結局、石垣による天守台も築かれなかったことが発掘調査でも確認されている。

市街地のほぼすべてが焦土と化した富山に、復興のシンボルが必要だったのは理解できる。しかし、この天守は近代都市のシンボルにすぎず、歴史や伝統を尊重しようという姿勢に裏づけられていない。

そんな「天守」が平成16年(2004)、「地域の景観の核」として国の登録有形文化財に登録されてしまったのは、悪い冗談としか思えない。