石垣がない土の城に石垣上の天守が
唐津城(佐賀県唐津市)は豊臣系大名の寺沢広高が、慶長7年(1602)から本格的に築城した。その際、天守台の石垣は築かれたが、すでに寛永4年(1627)の時点で「幕府隠密探索書」に、天守台はあるが建物はない旨が書かれている。
ところが現在、その天守台には五重五階の天守が建つ。昭和41年(1966)、例によって文化観光施設として建てられたもので、天守の記録がないので、秀吉が朝鮮出兵の基地として築いた肥前名護屋城(唐津市)をモデルに設計された。ちょうど昭和43年に、名護屋城と城下を描いた『肥前名護屋城図屏風』が発見されたばかりだったのだ。
平成20年(2008)から令和3年(2021)、傷んだ石垣の整備にともなって発掘調査が行われ、本丸の各所から古い石垣が見つかり、豊臣政権下の城に特徴的な金箔瓦も発見された。このため寺沢広高の築城以前に、先立つ城郭が築かれ、その時点では天守が建っていた可能性も否定できない。だが、そうであったとしても、いまの天守はそれとなんら縁がない。
そういう天守は九州に多いが北にもある。横手城(秋田県横手市)は、関ヶ原合戦後は最上氏、続いて佐竹氏の所有となり、寛文12年(1672)に佐竹氏の縁戚の戸村義連が入城すると、明治まで戸村氏が城主を務めた。その間、天守が建ったことはなく、江戸時代をとおして石垣がない土の城だった。
ところが、昭和40年(1965)に三重四階の天守が、石垣の天守台上に建てられた。岡崎城をモデルにしたそうだが、柱と窓の関係など、木造建築のセオリーもまったく考慮されていない。
ふるさと創生基金で建てられたお城
織田信長が美濃(岐阜県南部)に侵攻するにあたり、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が永禄9年(1566)に、わずか3日半で築いたとされる墨俣城(岐阜県大垣市)。その逸話が記されているのは、江戸時代初期にまとめられた『武功夜話』が中心で、『信長公記』ほか同時代の史料には記述がないため、後世の創作だとする見解も少なくない。
だが、秀吉の逸話が史実であろうとなかろうと、墨俣城が土塁や空堀で構成され、木柵などで囲って簡易な建造物を配置しただけであったことはまちがいない。
ところが、そこに平成3年(1991)、四重五階で最上階の屋根に金色の鯱をいただく白亜の天守が建ったのである。外観は大垣城を模したそうだが、大垣城の外観は江戸時代初期に整備されたもので、時代がまったく異なる。
天守の出現以前に廃城になった土の城の跡に、石垣上にそびえる高層の天守が建てられた例は、昭和42年(1967)に完成した亥鼻城(通称・千葉城、千葉市中央区)など、ほかにも例がある。