間違ったイメージを与えている

平戸城(長崎県平戸市)の本丸には三重四階の天守が建ち、最上階からは平戸湾の絶景を見渡せる。だが、昭37年(1962)に建てられたこの天守は、不思議なことに平面の半分は石垣に載らず、地面に直接建っている。二重櫓の跡に無理に建てているからで、本丸に天守台はなかったのである。

平戸城模擬天守
平戸城模擬天守(写真=小池 隆/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

平戸城の前身である日之嶽ひのたけ城を築いたのは松浦鎮信しげのぶだが、完成間際の慶長18年(1613)に焼失した。豊臣家との関係性を徳川幕府に疑われた鎮信が、嫌疑を晴らすためにみずから火をつけたともいわれる。その後、元禄16年(1703)になって再築城が認められ、享保3年(1718)に完工したが、天守は建てられなかった。

現在の天守は戦後の天守復興ブームにあやかり、観光の拠点とするために建てられた。海からの景観や天守からの眺望が重視されたようだが、訪れた観光客に平戸城の誤ったイメージをあたえている。

なぜか別の城をモデルに再建

昭和39年(1964)、中津城(大分県中津市)の本丸に完成した鉄筋コンクリート造の五重五階の天守は、和歌山城や熊本城の再建天守を手がけた藤岡通夫氏が設計した。だから、史実の天守かと思ってしまうが、この城も江戸初期を除いては天守が建った形跡がない。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、豊前(福岡県東部と大分県北東部)に入封した細川忠興が天守を建てた形跡はある。元和5年(1619)、忠興が息子の忠利に宛てた手紙には、中津城天守を約束どおりに(明石城を築城中の)小笠原忠政に渡すように、という指示が記されている。

中津城天守
中津城天守(写真=ほっきー/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

だが、明石城に天守は建てられず、中津城天守のその後についての記録がないから、どうなったのか不明だが、その2年後には天守がないことが確認され、以後、絵図等にも天守は描かれていない。

それなのに旧藩主の奥平家が主導し、観光のシンボルとして天守が建てられた。二重櫓が建っていた石垣に石を積み増して天守台とし、古写真が残る萩城(山口県萩市)天守をモデルに建てたのである。