江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「決して凡庸ではないが、父・家康のようなカリスマ性や軍事の才能はなかった。それゆえに、豊臣家再興への恐怖心は強く、秀吉ゆかりの大坂城を徹底的に破壊した」という――。
徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=ブレイズマン/松平西福寺蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

なぜ大坂城は難攻不落の城と呼ばれたのか

12月17日に放送されたNHK大河ドラマ「どうする家康」の最終回「神の君へ」では、豊臣秀吉が築いた大坂城が天守もろとも炎上し、それを家康が陣所から眺める場面が流された。この大坂城は文字どおりに天下無双の城であった。

秀吉が大坂城を築いたのは、大阪市内で唯一の高台である上町台地の北端、淀川や大和川が海に注ぐ河口に近い場所だった。この地は海上交通の要地として古墳時代から栄え、中世においては、明応5年(1496)に本願寺八世の蓮如がここに大坂御坊を構えた。これがのちに本願寺の総本山、大坂本願寺(石山本願寺)となり、一向一揆の元締めとなった。

このため元亀2年(1571)から10年にわたる織田信長との抗争、いわゆる石山合戦が繰り広げられた。その結果、天正8年(1580)に和議が成立し、信長は大坂の地を手に入れる。むろん、この要地を自分のものとすることは信長の悲願であり、やがてみずからの政権の中枢をここに置く意向だったとされる。

だからこそ、天正10年(1582)の本能寺の変ののち、信長の後継の座をねらう秀吉にとっても、大坂は重要だった。翌天正11年(1583)4月に柴田勝家を下すと、信長の一周忌にあたる6月2日、本願寺跡地に仮設した大坂城に入城。その後、9月1日から築城工事を開始し、当初は2~3万人、まもなく5万人ほどを毎日動員した。