豊臣大坂城の2倍の城をつくれ

大坂夏の陣後、大坂城主になったのは家康の外孫(長女の亀姫が嫁いだ奥平信昌の四男)の松平忠明ただあきらで、10万石をあたえられて城下町の復興にあたった。ただし、城の改修は簡易なものにとどまり、忠明自身、屋敷は城外に構えていた。

城の再建が進められるのは、忠明が町の復興に目途を立てて元和5年(1619)に大和郡山に転封になり、秀忠が大坂を直轄領としてからだった。もちろん、再建の施主は秀忠自身である。

ただ、それはたんなる再建であってはならなかった。それまで大坂城にあった、豊臣秀吉および秀頼の権威発揚の地というイメージを完全に拭い去って、徳川幕府の圧倒的な力を見せつけ、西国の大名たちに睨みを利かせる城に転換する必要があった。そのためにも徳川が再建する大坂城は、あらゆる点で豊臣大坂城をはるかに上回るスケールを目指さなければならなかった。

再建の総奉行としてあたらしい大坂城を設計したのは、築城の名手で家康の覚えがめでたかった藤堂高虎だった。高虎の事績を記した『高山公実録』などには、秀忠が高虎に、石垣の高さも堀の深さも旧城の2倍にするように指示した旨が書かれている。

藤堂高虎
藤堂高虎(画像=GooGooDoll2/個人所蔵品/PD-Art/Wikimedia Commons

黒い天守ではなく白い天守にした深い理由

こうして元和6年(1620)に築城工事がはじまり、寛永6年(1629)まで3期、9年にわたる工事が行われた。その際、普請すなわち土木工事は、西国および北陸の外様大名を動員し、彼らの自己負担による御手伝い普請(天下普請)で実施された。一方、作事すなわち建築工事は幕府の直営事業として行われ、小堀政一(遠州)が仕切った。

元和8年(1622)までの第1期工事には47大名が動員され、二の丸の西、北、東側と北外曲輪の石垣が築かれた。同時に櫓などの建築も進められた。続いて第2期工事が、寛永元年(1624)から同3年(1626)まで58大名を動員して行われ、本丸や天守台が築かれた。この時期に天守以下御殿など、中枢部の建造物も完成している。そして、寛永5年(1628)からの第3期工事で、57大名を動員のうえ、二の丸南側が整備された。

この二の丸南側には、広大な南外堀が約2キロにわたって続き、幅が最大75メートルもある。しかも、その対岸の屏風折れの石垣は、堀底からの高さが約30メートル。本丸東面の石垣も、同様に約30メートルの高さを誇る。秀忠の「2倍に」という指示は、見事に実現されたのである。

ちなみに、この工事は補修工事ではない。豊臣大坂城はいったん盛り土によって完全に覆い尽くした上に、まったくあたらしく堀が掘られ、石垣が築かれた。石ひとつさえ豊臣の痕跡は残っていないといっていい。まさに秀忠の執念だといえる。

秀忠にとっては、建造物も豊臣色を一掃するものでなければならなかった。あたらしい天守は天守台の石垣をふくむ高さが約58メートルと、豊臣時代の天守より20メートルも高くなった。規模だけではない。豊臣時代の漆黒から一転し、白漆喰で塗籠にした白亜の天守となった。

天守だけではない。城内には三重櫓12棟、二重櫓15棟が並び建ったが、これらも多門櫓や土塀も、すべて白亜に塗られ、色彩においても豊臣色は完全に消し去られた。