道長が呼び捨ての対象だったワケ
ところで、道長の事績は主に三つの史料で確認することができる。ひとつは道長自身が長徳4年(998)から治安元年(1021)まで書き記した『御堂関白記』である。これは直筆の日記としては世界最古とされる自筆本14巻、および古写本12巻が伝わっていて、国宝に指定されていると同時に、平成25年(2013)にはユネスコの「記憶遺産」に登録された。
続いて、道長の側近でもあった藤原行成が記した『権記』も、正歴2年(991)から寛弘8年(1011)までのものが残っている。さらに藤原実資の日記である『小右記』にいたっては、天元5年(982)から長元5年(1032)までの50年におよぶ記録が伝わっている。
道長が史料に初登場するのは、まさに『小右記』の冒頭に近い天元5年の日記である。五男とはいえ道長は、その当時に正二位右大臣で藤原氏のトップを走っていた公卿の息子だったから、天元3年(980)にはわずか15歳で従五位下に叙爵し、貴族になっていた。
しかし、実資は『小右記』に「右大臣(兼家)の子道長」と記している。「光る君へ」の時代考証も務める倉本一宏氏は、「前年に蔵人頭に補されたばかりで二十六歳の気鋭の実資にとっては、十七歳で兼家の五男に過ぎない道長などは、呼び捨ての対象だったのであろう」と記している(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
兄二人との決定的な違い
そんな道長が大出世を遂げるのは長徳元年(995)以降だが、その前に、いざとなれば出世しうるだけのお膳立ては整った。要因は寛和2年(986)、父の兼家が摂政に就任したことだった。兼家は花山天皇を出家させ、次女の詮子(円融天皇の女御)が生んだ外孫の懐仁親王を一条天皇として即位させると、その摂政になったのだ。
それを機に道長も急速に昇進を遂げ、その年のうちに蔵人、少納言、左少将を歴任。翌永延元年(987)には、左京大夫となって従三位に叙された。
三位以上は律令制下における太政官の最高幹部で公卿と呼ばれるが、道長はわずか21歳で公卿に列したのである。この時点で、5年前に道長を呼び捨てにした実資を抜き去り、永延2年(988)には権中納言に就任している。
父が摂政に就任したとき、兄の道隆は35歳、道兼が27歳だった。現代の感覚でいえば二人とも十分に若いが、当時は平均寿命もかなり短かった。前出の倉本氏は、こうして道長が若くして出世できた理由について、「兄たちが兼家の雌伏期間中に青年期を過ごしたのに対して、道長は若年で父の全盛期を迎えることができ、末子であることがかえって有利に作用したことになる」と書く(前掲書)。