突如、政権が転がり込んできた

それでも道長は、権力を握れる立場にいたわけではない。父の兼家は病気が進行し、正暦元年(990)5月8日、関白の座を長男の道隆に譲って7月2日に死去。同じ年の正月に道隆は、長女の定子を一条天皇に入内させ、強引に中宮に立てていた。

つまり、道長の長兄の道隆は、自分が天皇の外祖父として権力を掌握し続ける体制づくりに余念がなかったのである。しかも、正暦5年(994)には長男でまだ21歳の伊周これちかを、3人の頭越しに内大臣に就け、後継者に定めた。29歳になっていた道長はまだ権大納言で、甥っ子に追い抜かれてしまった。

そこに襲いかかったのは疫病だった。正暦4年(993)ごろから九州で流行しはじめた疫病は、疱瘡ほうそう(天然痘)ではないかといわれる。正暦5年に全国に広がると、平安京では人口の半分が死亡したという。当時はウイルスの知識がないのはもちろんのこと、治療法もわからないまま、感染症は猖獗しょうけつをきわめた。

それでも参議以上の公卿には死者が出なかったが、翌長徳元年(995)になると事情が変化した。関白の道隆が4月10日に死ぬと、関白職を継いだ弟の右大臣道兼も5月8日に死去。ほかにも道長の上位にいた人たちは、道隆の長男の伊周を除いてみな亡くなった。こうして政権の座のほうから、道長のもとに転がり込んできたのである。

出世の大きな助けになった姉の存在

関白だった兄の道隆と道兼が相次いで死去したのを受け、一条天皇は5月11日、道長を内覧に任じている。内覧とは文字どおりに、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前に内覧する役。さすがに権大納言で大臣でもない道長を、いきなり関白にすることはできず、実質的な仕事内容は関白と変わらない内覧という地位に就任させたようだ。

棚からぼた餅だが、道長の出世が危うかった場面もあった。疫病に冒された道隆は、関白職を長男の伊周に譲りたかったようで、そうなっていれば世代交代が一挙に進み、道長の出る幕はなかったかもしれない。しかし、一条天皇が道兼を選んだために、道兼の死後に道長にお鉢が回る余地が生まれた。

それでも道兼の死後、政権を伊周に担当させる手もあっただろうが、前出の倉本氏は「世代交代を阻止し、同母兄弟間の権力継承を望んだ詮子の意向がはたらいたのであろう」と記し(前掲書)、その理由を概ね次のように説明している。

道隆と道兼は詮子よりかなり年上だが、道長は年下で晩婚だったので、詮子は長いあいだ一緒にいて、ほかの兄弟よりも親しみを感じていた。したがって、道長が政権を握ることができたのは、「藤原詮子の後押しがあったからだとも言われています」(倉本一宏『平安貴族とは何か』NHK出版新書)。