次々とライバルが消えていく

その結果、内覧になっただけでなく、6月19日には、内大臣の伊周より下位の権大納言から上位の右大臣に出世した。さらには太政官一上いちのかみ氏長者うじのちょうじゃにもなった。一上とは太政官のトップで、公卿の会議に出席できない関白と違って、会議を主宰できる。

つまり道長は、関白になれなかったばかりに、内覧として天皇の文書を読んで助言し、公卿たちも議論を主導できるという、むしろ都合のいい立場を獲得し、絶大な権力を掌握したのである。

おまけに、翌長徳2年(996)には伊周と、道隆の四男の隆家が、長徳の変という事件を経て左遷されている。要は、花山法皇が伊周、道隆と遭遇した際に乱闘騒ぎになり、花山の従者が殺されたという事件だった。道長の最大の政敵、伊周はこうして自滅した。

しかし、道長はまだ満足しなかった。自分の娘を天皇の后にし、その妃が生んだ皇子を天皇として即位させて、はじめて権力は盤石になると知っていた。だから、長女の彰子の入内を急ぎ、長保元年(999)、すでに兄の道隆の娘である定子が妃となっている一条天皇のもとに、数え12歳にすぎない彰子を入内させた。

そのことが道長のわが世の春を準備したことはいうまでもない。道長に政治的嗅覚とセンスがあったのはまちがいないが、それが発揮されるにあたっては、すでに述べたような偶然が、強く作用したのである。

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