血溜まりの中で絶命した

ここで言及されている行幸は、後一条天皇の石清水八幡宮への行幸のことであるから、右の事件があったのは、後一条天皇が石清水八幡宮へと行幸した寛仁元年三月八日の申時頃だったのだろう。

また、申時というのは、おおむね、午後三時から午後五時にかけての時間帯であるが、旧暦が用いられていた王朝時代の三月八日は、われわれ現代日本人の用いる新暦において四月の下旬頃に該当しようから、清原致信襲撃事件は、まさに白昼堂々の凶行であった。

写真=iStock.com/duncan1890
※写真はイメージです
清少納言(画像=菊池容斎/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これ以前に大宰府の三等官である大宰少監を務めていたことの知られる清原致信は、朝廷に仕える中級官人であり、われわれが「王朝貴族」と呼ぶ人々の一人である。しかも、清少納言の兄にあたる彼は、当然のことながら、著名な歌人であり『後撰和歌集』の編纂者の一人としても知られる清原元輔もとすけの息子であった。

ところが、そんな致信の最期は、「王朝貴族」と呼ばれる人々にはまったく似つかわしくないものであった。騎馬武者に襲撃された致信は、その身体を一本あるいは数本の矢に貫かれて血溜まりの中で絶命したはずなのである。

しかも、ことによると、騎馬武者の随兵たちの手で首を斬り落とされていたかもしれない。したがって、件の騎馬武者たちが駆け去った後、人々が致信宅で眼にしたものは、致信の首のない遺骸だったかもしれないのである。

なぜ清少納言の実兄は殺されたのか

しかし、より驚くべきは、彼が酷たらしく殺された理由についてであろう。実のところ、致信が先に見たような最期を迎えなければならなかったのは、これに先立って、致信自身が他人の生命を奪っていたがゆえのことだったのである。

このことは、寛仁元年三月十一日の『御堂関白記』の先ほどの続きを見るならば、すぐにも明らかになろう。

「『そこで、検非違使たちに捜査を命じまして、このような報告書を作らせました。そして、この報告書によりますと、秦氏元はたのうじもとという者の息子が致信を殺した騎馬武者たちの中にいたとのことですので、氏元の居場所を調べましたところ、この者は、源頼親よりちかに付き従う武士の一人であるようです』と報じた。そこで、頼親に事情を尋ねてみると、先日の致信殺害は、まさに頼親の命じたものであった。この源頼親について、世の多くの人々は、『人を殺すことを得意としている』と評しているが、事実、彼が今回のような事件を起こしたのは、けっして初めてのことではない。そして、致信の殺害を命じた頼親は、以前に殺害された大和国の当麻為頼たいまのためよりという者の仲間であったらしい」