実子を諦め養子の秀次に関白職を譲る

秀次は永禄十一年(1568)、三好吉房と秀吉の姉・智の子として生まれたが、のちに叔父の秀吉の養子となった。天正十二年(1584)には長久手の戦いで大将として三河へ進攻するが、徳川軍に大敗を喫し、秀吉の叱責しっせきを受けた。

翌年には近江国などに四十三万石を貰い、八幡山に城を構えた。天正十八年(1590)、小田原攻めの先陣として伊豆国の山中城を攻略した功で、尾張国と北伊勢五郡を与えられ、清洲城主となった。この翌年には、秀吉の命で徳川家康とともに奥州一揆を鎮圧する。

なお、秀吉には多くの養子がおり、秀次もそのなかの一人にすぎなかった。ところが秀吉は鶴松の死後、もはや実子は望めぬと考え、甥の秀次を内大臣に抜擢、さらに関白職を委譲したのである。二十四歳という若き関白の誕生であった。このとき聚楽第も秀次に譲られ、秀次はここを拠点として政務をとることになった。

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秀次に与えた「五カ条の教訓状」

豊臣の家督を譲るにあたって、秀吉は秀次に五カ条の教訓状を与えた。

以下、意訳して紹介しよう。

「国が静謐になったといっても、軍事に油断なく、武器や兵糧を整えておけ。私がおこなったように、出陣するにあたっては兵糧を出して長陣を覚悟するようにしろ。法律をしっかり定め、背く者があれば依怙贔屓せずに糾明し、兄弟や親族であっても成敗しろ。

朝廷を敬い、奉公をつくせ。奉行は能力によって選び、人材を大切にせよ。武将が戦いなどで亡くなった場合、必ず跡目を立ててやること。ただ、跡継ぎが十歳以下のときは、名代を出させなさい。子供がいなければ兄弟に家督を継がせよ。

茶の湯、鷹狩り、女遊びに熱中してはいけない。私がやっているからといって真似はするな。ただし、茶の湯は慰みでもあるので、茶会を開いて人を招くのはかまわない。鷹狩りは鳶鷹や鶉鷹などを使ってたしなむ程度ならよい。召し使う女は屋敷のなかに置きなさい。五人でも十人でもかまわない。ただ、外でみだりに女狂いはするな」

甥への愛情がにじみ出ていて微笑ましい。

こうして秀次に関白を譲った秀吉は、隠居の城として伏見城をつくり始めるが、この頃には意欲を回復し、朝鮮出兵を断行、その指揮をとるようになった。