200万円が半年でなくなってしまう

9月に入学するため、彼は予備校生活を切り上げ、アルバイトでためた金と親にもらった金、あわせて1万ドル(当時は日本円で250万円)を腹巻のなかにつめこんで、成田空港からユタ州へ渡った。

入学してすぐ、彼は中古でボルボのアマゾンを買った。週末になるとその車を駆ってラスベガスに出かけ、ブラックジャックに興じたのだった。腹巻に入れた200万円は中古のボルボ・アマゾンとブラックジャックの掛け金に代わり、半年でなくなってしまった。

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アメリカで最初に買ったボルボのアマゾンと

学費を稼ぐためには日本に帰るしかない。半年後、両親には内緒で日本に帰り、東京でアルバイトをすることにした。幸い、アメリカの大学は単位制だった。学期ごとに単位を取り、積み重なれば卒業できる。半年間、勉強して単位を取り、半年は社会で働く学生も少なくなかった。彼もまた勉強だけの学生生活ではなく、半年はDJとラスベガス、残りの半年は東京でアルバイトという生活を送ることにした。

電話営業で1350万円を売り上げる

さて、東京に帰った彼はまず住宅を確保した。といっても友人の家に転がり込んだ。だから家賃はタダだ。問題は何をやるか、である。短期間で大きく稼ぐには、人が嫌がる仕事をしなければならない。

最初にイエローページをめくって見つけた高賃金の仕事は、英会話教材の電話営業だった。

教材の値段はワンセットで45万円。1980年の大学卒初任給は11万4500円だから、かなりの額になる。

しかし、彼はためらうことなく教材販売を始めた。

「僕はこのテープを聞いてアメリカに留学したんです」とのセールストークで、なんと最初から1カ月に8セット、3カ月で30セットも売ってしまった。歩合も含めると、ラスベガスで溶かした200万円以上の金が手に入り、それを持ってふたたびアメリカへ旅立ったのである。

翌年、また金がなくなった。躊躇することなく東京の別の友人のアパートに転がり込む。

その年の仕事は英会話教材ではなく、太陽熱温水器の訪問販売だ。それでもまた3カ月で200万円以上の歩合を稼ぎ、アメリカへ。