「DJになりたい」からアメリカ留学を決意
高校3年生の時、彼は北海道大学、北海道教育大学など軒並み受験したが、もちろん落第して札幌の予備校へ通うようになる。なんといっても札幌は彼にとって初めての都会だ。
入学はしたものの、通学はせず、毎日、遊びほうけたのだった。その時、彼は18歳。当時、大流行していたディスコに足を踏み入れた。「カルチェラタン」「パブウエシマ」「ラブリー」……。どこのディスコでも、かかっていた曲は「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年公開)の「ステイン・アライブ」「恋のナイトフィーバー」「愛はきらめきの中に」(いずれもビージーズ)だった。
痩せていた彼は髪の毛を伸ばし、ジョン・トラボルタのように夜の札幌を歩いた。そして毎晩、ディスコにいるうちに真理を得た。それは、ディスコでいちばんモテるのはフロアで踊る若者ではないこと。問答無用ともいえるくらいモテたのは、ブースでレコードをかけ、英語で曲紹介をするDJだった。
フロアで踊るカッコいい若者だった彼は改心した。
「モテないのだから踊らない」
それより、DJになろう。ただのDJではなく、英語でしゃべるDJだ。それならアメリカへ留学するしかない。そう決心した時も彼は18歳だった。取るに足らない年齢だから、考えることもまた幼稚だった。
「頑張れ。カネは出せないけど」
しかし、行動派だった。歌志内にいる両親に「アメリカに留学することにした」と告げる。
ふたりは「なんでだ」といぶかしそうな顔をした。
「ラジオのDJになりたいんだ。アメリカの大学にはDJになる学科がある」
両親は破顔一笑である。
「いいじゃないか、すぐ行け。頑張れ。カネは出せないけど」
札幌に戻った彼は予備校には行かず、下宿先で英語の勉強を開始した。同時にアルバイトでディスコのDJの真似事と店員として稼いだ。しかし、アメリカの大学は9月から学期が始まる。急いで勉強しなくてはならない。腕試しにTOEFLの試験を受けたところ420点の成績だった。
その成績ではハーバード大学やイェール大学には絶対に入ることはできない。地方にある大学ならESL(英語が母国語でない学生のために設けられた英語プログラム)のクラスも必要だが滑り込むことができる。彼が見つけたのはユタ州セントジョージにある州立ディクシー大学。同大学には大学のFMステーションとDJになるコースがあった。