シェフから言われた思いもよらない提案

そう伝えた前田さんに、平井さんは、はっきりこう言った。

「テツさん、それはないわ。10年もお世話になっておいて。ちゃんと気持ちを伝えて終わったほうがいいよ」

それから、毎日のように平井さんからメッセンジャーに、メッセージが届くようになる。

「テツさん、ビクトルとちゃんと話せましたか?」

執拗しつようにくるリマインダーに、「ほっといてよ」と思いながらも背中を押された前田さんは、ビクトルに本当の気持ちを伝えることにした。

「最近ブスッとしていてごめんなさい。ビクトルにはすごく感謝している。一緒に働けることも誇りに思う。それにエチェバリを辞めたいわけでもなくて……。ただ自分の料理をしてみたいんだ」

するとビクトルはこう言った。

「俺はもう引退するからエチェバリを買ったらどうだ?」

バスクでやりたいことがある

ビクトルから思いも寄らない提案を受けた前田さんは、平井さんにお礼をかねて報告のメールを入れた。すると、こんな返事がきた。

「(ビクトルの)レガシーを継げるのは、テツさんしかいないと思う。日本人がそこにたどり着いたって、すごいことだよ。それができるなら、なんでも協力するから」

そうして、平井さんが資金面を含めサポートする形で、2人はタッグを組むこととなる。

「エチェバリの営業権を買い、家賃を払っていく」とのことで、話し合いの結果、一度は合意に至った。

だが、エチェバリで働いているビクトルの家族たちが首を縦にふらず、エチェバリを買い取る話はあっけなく立ち消えた。

それでもやはり、バスクでやっていこうと決意した前田さんは、「同じ村の中でお店をだそうと思っている」と、ビクトルに相談。

「それはお前の人生だから俺に言えることは何もないよ。好きなようにやりな」

前田さんは、エチェバリから100メートルほど先の丘の上にある山小屋を新たな挑戦の場に選んだ。

2022年3月、10年間におよぶ、エチェバリでの日々は幕を下ろした。

筆者撮影
新しい舞台に選んだのは築400年ほどの山小屋