ようやく「この道でよかった」と思えた
今でも時々、エチェバリでシェフを続けるビクトルと山でばったり会うことがあるという。
一部のメディアでは、エチェバリの近くで新しくレストランをオープンした前田さんに対し、非難の声があがっていた。だが、渦中の2人の会話はいたって平穏だ。「シェフって大変だね」「俺、生意気だったね」と、静かな会話をする。
「僕はビクトルの30年の経験を10年間に圧縮して学ばせてもらいました。彼とまったく同じことをするのでは意味がない。次のステップに進むことが、料理を教えてもらった責任だと思っています。ビクトルのレストランに対する惜しみない姿勢が好きでした。自分もそうありたいと思っています」
取材が終わろうとしたとき、前田さんは「今の自分が“良い”とは思ってないんですけど……」とぽそりとつぶやき、こう語った。
「昔は廃人のように生きるか、もしくは存在意義を探していました。あの時大学に行っていたら、実家が金持ちだったら、ああだったらこうだったらと考えてしまい不安だったんです。でも今は、自分にはこの道でよかったな、と肯定できるようになってきました。最近すごく楽しくて。軽いです、心が」
そう答え、すがすがしい顔で笑った。
前田さんは、素材の人生を最高の状態でお皿に盛り「おいしい」と喜んでもらえることに全力を尽くす。
10年間、「アサドール・エチェバリ」の副料理長、ビクトルの右腕という大きな看板を背負ってきたシェフは今、「日本人・前田哲郎」として新しい扉を開けた。