炎の魔術師と呼ばれて
前田さんはエチェバリの代名詞である薪焼きのレシピを試作し、積極的に提案するようになった。その行動力が功を奏し、今までビクトル以外に焼き場を担当する人がいなかったエチェバリで、唯一焼き場を任せてもらえるようになる。
気がつけばコースの半分は前田さんが焼くようになり、世間からは「ビクトルの右腕」「副料理長」と呼ばれるようになっていた。
その頃のエチェバリは、「世界のベストレストラン50」で34位、13位、10位と年々順位が上がり、世界の料理関係者から一層の注目を集めていた。
エチェバリの評価が上がると同時に、「副料理長・前田哲郎」の知名度も上昇。メディアで取り上げられることも増えていった。
同時期に、サッカースペインリーグ1部のクラブ、エイバルに移籍してきた乾貴士選手の食事も作ることとなる。友人から頼まれた仕事だったが、5年間、乾選手の料理を前田さんが、掃除を妻の奈緒美さんが担当した。
現役選手として活躍できる期間が短いアスリートのストイックさを間近で見た前田さんは、「自分もがんばらないと……」と奮い立った。
どんなに活躍しても給料は19万円
ある時、世界中を食べ歩く美食家で“世界一のフーディー”とも称される浜田岳文さんから依頼がきた。自宅を開放し「テチュバリ」という名をつけて、料理を振る舞った。
それが口コミで広がり、実業家の堀江貴文さんや世界のトップレストランを紹介する「OADレストランランキング」の主催者などの著名人からも次々と予約が入るようになった。
「最初は材料代でひとり50ユーロ(約7500円)だけもらっていました。良い食材をそろえて、このくらいの肉使うなら150ユーロ(約2万2000円)もらわないとな、となって。最終的には、ひとり400ユーロ(約6万円)いただいていました」
これをきっかけに日本への出張依頼も入った。2018年に石川県白山の山奥で開いた1週間限定のポップアップレストラン「テチュバリ」を皮切りに、毎年知り合いづてに声がかかるようになる。石川県の白尾海岸にて2日間限定で開催した際には、オンラインで販売した60人分のチケットがわずか18分で完売した。
北海道や沖縄、シンガポールへも飛んでいった。その時のコースの単価は4万~8万円。イベントに呼ばれれば1日で80万円支払われることもあったという。
しかし、スペインに戻れば一介の雇われシェフに戻る。
この時、エチェバリでの前田さんの給料は1300ユーロ(約19万円)だった。スペイン統計局(Instituto Nacional de Estadistica)によると、スペイン飲食店業者の平均月収はおよそ1314ユーロ(約19万円)。スペインの目線でみても、仕事量の多い副料理長の給料としては、低所得だと言える。
「僕から給料を上げてくださいって、お門違いな気がして言えませんでした。スペイン語を喋れない時から毎月ちゃんと給料を払ってくれていましたし。ただ、それでもやっぱりいろいろと不満になってきてしまって……」
個人での評価が上がれば、自我も芽生えてくる。「独立」の2文字が前田さんの脳裏をかすめるようになっていた。