「千枚通し」のスパルタ教育
そのうち渡辺は、いらいらしてきた。思わず口調もきつくなる。
「1本針で2度縫うところを、2本針なら1度で縫えますのに。そんなやり方して儲かってへんのと違いますか?」
2本針で縫うなどという発想は、はなから幸一にはなかった。内心舌を巻きながらも、さすがに何度もぼろくそに言われるうち腹が立ち、ついにこう言い返した。
「そない偉そうに言うんやったら、うちに来てやってくれ!」
「しゃあないなぁ。こうなったら本腰入れて教えたらんとあかんか」
ほとんど売り言葉に買い言葉のノリで渡辺の入社が決まった。昭和26年(1951)9月のことであった。
渡辺が入社すると工場内の空気は一変した。
若い縫製工たちは渡辺が教える新しい技術を次々に吸収していったが、つらかったのがベテラン工だ。この世界で年数を重ねているというだけで大きな顔はできなくなっていった。
製造過程のすべてについて工程分析して細分化され、
「はい、ここからここまで何秒で縫ってください!」
と各人に割り当て、トイレへ行く時間まで決められた。
「渡辺さんが来てから働いてばっかりでかなん、あんな人やめてほしいわ」
そんな声も聞こえてきたが、どこ吹く風だ。こっちは頼まれてきてやったのである。
そのうち彼女は、その厳しさ故に社員たちから“正宗”“千枚通し”といった恐ろしい渾名で呼ばれることになる。
だが間違いなく、渡辺の加入が和江商事の歴史の転換点だったのだ。生産体制は一気に強化され、やがてブラジャーやコルセットの大量生産が可能となっていった。
ブラジャーとスイス時計の共通点
渡辺の加入は幸一の意識をも変えた。この頃から彼は“布帛産業立国”という言葉を口にし始めたのだ。
この当時、わが国における縫製技術者の社会的地位は低かった。そもそも庶民の多くはみな生地を買ってきて、自分で寸法を測って自分で仕立てるか、仕立て屋に頼んで着物を仕立てていた。一反の布地を使い切ることを“反つぶし”というが、縫製業者は“つぶし屋”という一種の蔑称で呼ばれていたのだ。
だが幸一は、繊維加工産業の将来に大きな可能性を感じ始めた。
(これから日本女性が洋装化することで市場は急拡大する。縫製は手先の器用な日本人の得意分野だ。きっと世界と対等に渡り合える。そのうち縫製業者がこの国を支える時代がやって来るに違いない!)
とりわけ女性下着は肌に触れる。布の質に加え、縫製の技術が確かでないと、消費者はそれを敏感に感じ取ってしまう。
彼はしばしばブラジャーを“精巧なスイス時計”になぞらえたが、渡辺という女傑の参加で、おぼろげながらアメリカの背中が見えたような気がした。