あるときはゆったりと楽に生きることを勧め、あるときはみずからを厳しく律することを促す。そして、心の悩みには光明を見出す教えを示している。この本が日本に紹介されたのは江戸時代後期のことだが、本家の中国よりも、むしろ日本人の心の琴線に触れたらしく、幅広い読者を得て、長きにわたり愛読されてきた古典である。
そんな『菜根譚』の前集第五条に、「耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払(もと)るの事ありて、はじめてこれ徳に進みて行ないを修むるの砥石なり」という一節がある。
忠告や諫言というものは、聞かされるほうは、決して心地よいものではない。だが、これにきちんと対応するかどうかによって、人間としての器量が問われるばかりでなく、その後、その人が成長を遂げるかどうかの分かれ道ともなる、ということを説いているのだ。
これがすなわち「逆耳払心」である。耳に逆らう、すなわち耳が痛い話もしっかり聞き、ともすれば心から払いのけてしまいたくなるような状態こそが、おのれを磨く「砥石」のごとき役割を果たしてくれる。
そのすぐ後に、もし耳に入るのがお世辞のような甘い話ばかりで、何をするのも思いのままという環境にあったとするならば、知らない間に毒に侵されてしまうという一説が付け加えられている。
保険会社の支社長といえば、サラリーマンとしての一つの大きな到達点である。管轄地域を統括する支社でのトップであるわけだから、いわば一国一城の主なのだ。心の中でどう思っているかはともかく、支社のスタッフのほとんどは支社長の言うことにあまり逆らわない。だからこそ、名君にもなれば聖君にもなり、暴君にもなる可能性がある。
私自身、いろいろな現場を経験して身にしみていることは、上に立つものほど、人の意見、特に営業の第一線にいる人たちの声を大切にしないと、方向を誤ってしまうということだ。
それをわかっていたからこそ、新井氏は新任支社長たちに「思い上がってはいけない」と諭すために、戒めの言葉を伝えていたのだろう。渡された紙にはさまざまな言葉が書かれていたが、「逆耳払心」という言葉は、ことに当時の私の目に飛び込み、心に焼き付いたことをいまでも鮮明に覚えている。