技術が未熟で経験と勘頼みだった

東海道線熱海駅と函南駅の地下約150m付近を貫通する丹那トンネル工事は1918年、当時の鉄道省によって国家プロジェクトとしてスタートした。

トンネル掘削計画時に、東京帝国大学地質学教授をはじめ著名な専門家を総動員して地質調査等が行われた。ただ、当時の調査では、活断層やこの地域独特の温泉余土という特殊な地質について明らかにできず、掘削に何ら問題はないとされた。

最先端工法とされる当時のトンネル掘削技術は、極めて未熟であり、ほとんど手作業で、経験と勘と「山の神様」が頼りで、粘り強く完成までこぎつける以外には方法がなかった。

このため、実際の掘削で初めて困難と遭遇した。膨大な湧き水、温泉まじりの粘土との苦闘、それを象徴する水抜きトンネルは総延長約1万5000mにも及び、丹那トンネルの全長7804mの2倍近くにも達した。

当時の丹那トンネル工事の湧水状況(日本国有鉄道編『鉄道80年のあゆみ 1872―1952』より)

1921年4月、熱海口から約300m進んだところで、約40mにわたって崩落する大事故が起きている。掘削した岩屑をトロッコで運ぶための漏斗じょうごの穴に、大きな石が詰まり、漏斗の石を取り除こうとした作業員16人が崩落で圧死した。

その後も計3度も大事故が起こり、工事全体では67人が犠牲となった。丹那トンネル熱海口の真上には殉難碑が設置されている。その後の調査では、工事に動員された朝鮮人や女性もいたとされ、実際の死者は112人あるいはそれ以上と報告されている。

筆者撮影
67人の犠牲者を悼む殉難碑。丹那トンネル熱海口の真上に設置されている(=熱海市)

湧水の減少で水田やワサビ田に影響が出た

着工から5年目となる1923年9月1日には関東大震災が発生。トンネル内の直接的な被害はなかったが、翌年秋頃から丹那盆地で湧水の減少が見られた。当初は、関東大震災の影響と考えられた。

その後も湧水の減少は一向に止まらず、範囲も広がったため、1925年1月から渇水調査が始まった。

1927年には飲料水、水田、ワサビ田、牛乳腐敗、水車の運行停止などの被害拡大が見られ、渇水被害によって稲作ができなくなり、農家の収入は3分の1以下に減ってしまった。

1930年、丹那断層が2.4mも動く北伊豆地震が襲い、丹那トンネル工事とともに渇水被害にも追い打ちをかけた。

これらの苦境を乗り越え、1934年に丹那トンネルがようやく開通した。

トンネル完成後に、渇水被害への救済策を話し合い、稲作から酪農中心の農業への転換などを図るため、鉄道省は農家に対し多額の補償金を支払った。