秀吉に追放されたワケ
その後は一進一退の攻防が繰り広げられたが、次第に圧倒的な兵力を擁する秀吉が有利な情勢になった。すかさず秀吉は、信雄の本城である伊勢(三重県東部)の長島城を攻撃する構えを見せると、信雄はみずから秀吉の陣に出向いて和睦してしまう。こうなると家康にも戦いを続ける理由はなく、和睦にいたった。とはいえ、信雄も家康も秀吉に人質として実子を差し出すなど、秀吉への降伏に近い和睦だった。
それにしても、信雄はすぐに怖気づいて降参するなど、当時の武将としては矜持に欠けるが、それが秀吉には好都合だった。和睦の結果、信雄の所領は伊賀(三重県西部)と南伊勢を削られて尾張と北伊勢に限定され、秀吉は信雄との主従関係を逆転させることに成功したのである。
そして、天正18年(1590)の小田原の役後、ついに信雄は改易、追放される。それについて、フロイスが『日本史』に次のように書いている。
「関白は信長の息子御本所(信雄)に対しても、国替えをして他の二カ国を与えたいと伝えた。これにつき信雄は異議を唱え、従来の領国伊勢、尾張は父が残したものであって満足しているので、もとのままにしておいてもらいたい、と願い出た。関白はこの返答に接して激怒し、彼が領国を持つことを禁じ、一人の草履取りだけしか家来として伴うことを許さず、ただちにその領国を没収した」
関東に移封になった家康の旧領に移るように秀吉に命じられた信雄は、秀吉の逆鱗に触れて下野(栃木県)追放されたのである。フロイスは、秀吉のこの処置について「万人に驚愕の念を生じせしめずにはおかなかった」と記している。
プライドの低さで大名に
だが、「愚将」で矜持に欠けるからこそ、信雄は生き延びることができたともいえる。
その後、信雄は出家して常真を名乗り、下野に続いて出羽(秋田県)、伊予(愛媛県)へと流されるが、おそらくは、信雄の娘が嫡男の秀忠に嫁いでいた家康のとりなしで赦免され、秀吉の御伽衆、すなわち近くに侍って世話する役に加わった。織田家の面々は悲惨な最期を迎えた例が多いが、このプライドの低さが身を助けたといえよう。
その際、自身は大和(奈良県)に1万8000石、嫡男の秀雄は越前(福井県)に5万石を得たが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際、どちらにつくか躊躇しているうちに、西軍との関係を疑われ秀雄とともにふたたび改易された。
戦後、豊臣秀頼の庇護を受け大坂で暮らすが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の前に徳川方に協力したため、豊臣氏の滅亡後、家康と久しぶりに会見し、大和、下野に5万石を得た。
以後、寛永5年(1628)に73歳で没するまで、茶の湯や鷹狩りを楽しむ悠々自適の余生を送った。また、四男の信良の系統は出羽の天童藩主、五男の高長の系統は丹波(京都府中部、北部、兵庫県北東部)の柏原藩主として、それぞれ明治維新を迎えている。
信長の家系で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけだった。凡庸で、野心はあってもプライドがない。織田家では特殊ともいえる「愚将」だから、織田の血筋を残すことができた。歴史の皮肉である。