「金の生なる樹」とは

文化・文政年間(1804~30)にはオモト・マツバランなどの「金の生なる樹」が人気を博し、天保年間(1830~44)がオモト人気のピークであった。

池内了『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』(集英社新書)

『金生樹譜』の『万年青譜』(1833年)によれば一鉢100両、200両はざらであったという。『江戸繁盛記』(1832~36年)は「太平の万年青」と称して、あるオモトを紀州の人が10両で売った後、数日後に70両で転売し、そこから諸侯に献上されて300両の礼金が出されたという話を伝えている。

また天保・弘化年間(1830~48)には、第4次キクブームがあった。従来の単弁菊花の「平物」か、せいぜい一重か半八重の「丁子菊」から、管状の花弁が手毬状に盛り上がって咲く「厚物」の先行形である「宝珠菊」が出現したのだ(これらの技術はより洗練されて現代に受け継がれている)。同じ頃、「東都小万年青連」が結成され、コオモト(小万年青)が異常なブームとなっている。嘉永・安政年間(1848~60)の第2次アサガオブームでは、およそ考えられないくらいの多様・多彩で異様とも言えるアサガオが作出された(本章扉参照)。

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