池田恒興が提案した「中入り」とは

恒興は、自分の名誉挽回に血眼となり、娘婿の長可、息子の元助もとすけと相談し、全体の戦局もわきまえずに、突飛きわまる作戦を立案し、秀吉に進言しました。

池田恒興画像(写真=大阪城天守閣蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

自身を総大将とする別働隊を編成し、密かに陣地を抜け出て戦場を大きく迂回し、敵将・家康の本拠地である三河岡崎城を攻めると言い出したのです。

家康が動揺して兵を返せば、秀吉の主力軍がこれを追撃するという作戦でした。

「これは、“中入り”そのものではないか」

中入りとは、敵の最前線を避け、迂回して後方の手薄な部分を奇襲して破り、敵の全軍を壊滅に導く戦法のことです。

かつて上杉謙信や織田信長が、この戦法をたびたび用いて、華々しい戦果を挙げたことから、この時期、武将の間では、ずいぶんもてはやされたといいます。

しかし、この戦法はよほど勘のいい戦闘指導者と、実戦を熟知する将兵に恵まれて、しかも、敵将が凡庸であってはじめて、可能となる難しい戦法でした。

秀吉は反対しますが、恒興は自分の提案に執着し、執拗に食い下がります。

総大将の秀吉は不覚にも根負けしてしまい、折れて恒興の策を採用してしまいました。

家康の用意周到な作戦

家康・信雄連合軍を上回る恒興、長可、元助、堀秀政、秀吉の甥・羽柴(のち豊臣)秀次ら秀吉軍別動隊2万が、4月6日の夜半、楽田の陣地を後にしたのです。

しかし、家康が放っていた忍びは、この巨大な一軍を見逃しませんでした。8日早朝、家康はまず先発隊4500を、秀吉別働隊の進路途中にある小幡城に入れ、自身は信雄を語らって小牧山本陣を空同然にし、密かに出撃。小幡に入城して、待ち伏せの態勢を取りました。

やがてそこに、秀吉軍別働隊が進軍してきます。翌4月9日早朝、秀吉軍別働隊は急追してきた家康軍先発隊に、背後から攻撃を受けました。

前方を進軍していた恒興、長可の部隊が取って返して、徳川軍先発隊をいったんは撃退しますが、家康が率いる本隊に攻め立てられ、挟み撃ちされる形で総崩れとなり、恒興―元助父子、長可は討死、辛くも立て直した堀秀政は、秀次の軍をかばいつつ戦線を離脱するのがやっとのありさまでした。