「子どもが可哀想」で田植え体験をやめてしまう

ゲームやインターネットなど、人工的な空間で遊ぶことが多い今どきの子どもたちは、自然から離れた生活を送っているため、自然体験を与えるのは非常に大切なことである。

自然体験教育の一環として、田植えを経験させたり、芋掘りを経験させたりということが、しばしば行われている。だが、そこでも保護者の過剰反応があり、それに対して幼稚園や学校側も過剰な対応を取りがちとなっている。

たとえば、田植え体験に対しても、うちの子は泥水に入るのを嫌がっているから、このような活動はやめてほしいといったクレームや、あんな足腰を酷使する重労働をさせる必要はないだろう、可哀想だといったクレームがつくことがある。そんな軟弱なクレームにいちいち屈することはないと思うだろうが、

「教育委員会に訴えるぞ」

というような脅し文句を、保護者だけでなく生徒までが口にする時代であり、保護者からのクレームを過剰に恐れるため、田植え体験という貴重な教育をやめてしまう学校が出てくる。

保護者も学校側も思考停止状態になっている

芋掘りというのは、田植えよりもっと多くの子どもたちが昔から体験してきたものであろう。ところが、芋掘り体験に対しても、保護者からのクレームがあるようなのだ。たとえば、子どもによって掘って家に持ち帰る芋の大きさが違って不公平だといったクレームがあるらしい。わが子が持ち帰った芋が小さすぎて不満なら、

榎本博明『思考停止という病理』(平凡社新書)

「もっと大きいのを掘れなかったのか。今度一緒に行って芋掘りのコツを教えてやろう」

などと、わが子に言うべきであって、先生に文句を言うようなことではないだろう。だが、今の幼稚園も学校も、保護者の過剰反応的なクレームにも過剰に対応する。

困った先生から相談を受けた農家の人が、つぎからはそのような不公平が起こらないようにと、小さな芋を間引きし、できるだけ均一な大きさの芋を掘れるように配慮することさえあるようだ。

このように、非常識で自己中心的な保護者からの理不尽なクレームがまさに思考停止による過剰反応であり、それに対して学校側が過剰に対応することも思考停止と言える。

ごく少数の非常識なクレームにビクつき、いちいち対応するために、過剰反応的なクレームが後を絶たず、それによって良識ある多くの生徒たちに不利益が生じることになるのはいかがなものか。そこには思考停止による不適切な反応の連鎖がみられる。

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