政治家の家系・岸田家の歴史

安倍氏は臆面もなく、「故郷の山口」と言っていたが、岸田首相は、「広島を選挙区とする政治家」という言い方をする。広島を「故郷」とは言わない。あるいは、「言えない」。

2人は同世代の3世議員だが、その性格は違うようだ。

(本稿では歴史的記述となるので敬称は省略する。戦後政治の世襲については、『世襲 政治・企業・歌舞伎』(幻冬舎新書)に詳しく書いたので、お読みいただきたい)

広島の岸田家の近代の歴史は、文雄の曽祖父・幾太郎(1867〜1908)に始まる。幾太郎は1891年(明治24)頃から広島で海産物の販売業を始め、呉服、材木、金物まで扱うようになり、不動産事業にまで拡大したが、40歳で急死した。

幾太郎の長男(文雄の祖父)の岸田正記(1895〜1961)は京都帝国大学法学部を卒業し、父の事業を継ぐ。その後、1928年(昭和3)の衆院選に立憲政友会公認で広島1区から立候補し当選。

政治家の家系・岸田家の歴史はここからはじまる。

世襲2世は社会人としても実績があった

世襲2世、つまり岸田文雄と安倍晋三の父の世代は、社会人としての実績をあげてから政界に転じている。

岸田文雄の父、岸田文武(1926〜92)は1945年に東京帝国大学法学部に入学。48年に卒業している。商工省(後、通産省、経産省)に入り、中小企業庁長官まで出世したところで、78年に退官。79年の衆院選で、かつて父が出ていた広島1区から立候補して初当選した。この時53歳になっていた。

安倍晋太郎は東京帝国大学法学部を卒業。毎日新聞の記者となり、岸信介に目をかけられて、娘・洋子と1951年に結婚。三人の男子が生まれ、その次男が晋三である。三男・信夫は、生まれるとすぐに、洋子の兄の養子となり、岸信夫となる。

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毎日新聞の記者となり、岸信介に目をかけられた(※写真はイメージです)

安倍晋太郎が政治家へ転身するのは1958年。父・安倍寛がかつて出ていた選挙区・山口1区から立候補しようとした。

だが寛が亡くなってから12年が過ぎており、地盤は他の政治家に回されていて、晋太郎が立候補したいと言っても、返してくれなかった。

そこで、岳父の岸信介とその実弟の佐藤栄作が調整し、山口1区の別の現職議員を参議院へまわし、ようやく自民党の公認を得て当選した。