事務次官はキャリア官僚にとって最高の到達点だ。いったいどんな人がなるのか。経済ジャーナリストの岸宣仁さんは「官僚に話を聞く中で、事務次官になる人には3つの要素があることが見えてきた」という――。

※本稿は、岸宣仁『事務次官という謎 霞が関の出世と人事』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

丸の内超高層ビル群
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2年目で配属された大蔵省の記者クラブ

事務方トップである事務次官とは、そもそもどんな存在なのだろうか?

この疑問に対する答えを導き出すため、ささやかな個人的体験をご紹介したい。

筆者は新聞社に入って横浜支局を振り出しに記者生活をスタートした。大学時代に1年近く海外を放浪した経験から、特派員を養成する外報部を希望したが、思いが遂げられぬまま第2志望の経済部配属となった。

大学の講義でアダム・スミスやケインズなどの著作は読む機会があったが、通り一遍の知識にすぎず、果たして経済部でやっていけるのか不安だらけの日々が始まった。

経済部では、新人の入門編となる東京証券取引所(通称・兜町)の担当となる。1980(昭和55)年といえば、まだ場立ちが株の売買をしていた時代で、そんな活気のある市場風景を眺めながら、経済活動の初歩を学べという意味合いもあった。

2年目、配置換えで大蔵省(現財務省)の記者クラブである財政研究会(以下、財研)担当を命じられた。大蔵省がどんな組織か、東証が大蔵省の監督下にあった(現在は金融庁)ので、書物などから多少の知識は得ていたものの、「官庁の中の官庁」あるいは「霞が関最大のエリート集団」といった、一般の人と比べても毛の生えた程度のものでしかなかった。

民間人が考える以上の大いなる存在

その組織の頂点に立つ事務次官――「事務」と「次官」を組み合わせただけの単純な役職名だが、官僚の世界では、民間人が考える以上の大いなる存在である。それは、事務方トップであるという表面的な事実ではなく、30数年の歳月をかけて同期入省者の中から勝ち上がる出世すごろくの最終勝利者であるからだ。

初めて財研に籍を置いた40年前、前任者に連れられて主だった幹部のところを挨拶回りした。古色蒼然とした4階建ての大蔵省、その2階が大臣官房の部屋になっていて、廊下には赤絨毯じゅうたんが敷かれていた。

大臣室を中心に、その隣りが事務次官、廊下を挟んで官房長、文書課長の部屋が並ぶ、まさにこの一角が大蔵省の中枢機能であることを、そのたたずまいからも感じ取ることができた。

そして本書の主題である事務次官は、キャリア官僚が昇り詰める栄光のポストであり、大臣と隣り合わせに配置されているのもうなずける。大蔵省の官制が制定された1886(明治19)年以降137年間、同期の中から原則一人が次官に就く慣行が長きにわたって続けられてきたのは、組織論から見て、どのような権威づけや存在意義があったからか。