つかの間の「産まない自由」

サンガー女史からの薫陶も相まって、1930年代には出生率の低下が始まります。1930年に4.72だった合計特殊出生率が37年には4.37、38年3.82、39年には3.74と急降下を見せていくのです。ところがここで、政治の世界から強烈なカウンターが加えられることになりました。

満州事変から日華事変へと日中戦争が泥沼化する中で、戦争に勝つには多数の兵士が必要となります。そこで、「産めよ殖やせよ国の為」「子宝報国」というスローガンがつくられ、国策が多産奨励色を強めていきました。1941(昭和16)年1月に閣議決定された「人口政策確立要綱」では、当時7200万人だった人口を1960年に1億人にすることを謳っています。そのためには、向こう10年間で平均婚姻年齢を3年早め一夫婦当たりの出生数を平均5人にする、という神をも恐れぬ計画が発表されました。まさに、主語は女性でも男性でもなく、「国」「社会」という灰色の景色です。ただ、皮肉にも日本は戦争に負けますが、戦後復員や経済復興、生活レベルの底上げなどが相まって、計画と大きな齟齬そごなく人口増加を果たしていきます。

こうして、一度目の少子化トレンドは完全に潰えたのでした。

報国活動さえも当時の女性には「家から解放」される自由時間

一方で、戦争は女性に対して思わぬ副産物をもたらします。

それは、“片時の自由と承認”でした。

白の割烹着にたすきがけ、小旗を振りながら出征兵士の見送りをする婦人たち。彼女たちは国防婦人会の面々で、1932(昭和7)年、出征兵士が多かった大阪港の近くで、わずか40人で発足した自主的組織が元になっています。活動内容は兵士の見送りの他、留守家族の支援、傷病兵や遺骨の出迎え、慰問袋の調達と発送、防空演習の主導等々。

靖国神社を参拝する大日本国防婦人会の会員(1938年)。(写真=『靖國神社臨時大祭記念寫真帖:昭和十三年十月』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

この"地方の一任意団体"として生まれた国防婦人会は、居住地や職場方式で急速に会員を増やして全国組織となっていきます。1940(昭和15)年末には会員数が約900万人にまで拡大(後に他の女性団体と統合され、大日本婦人会に改称)。会員数の急速な伸びはもちろん軍部の支援があったこともありますが、それ以上に、同会が女性の社会参加機運を盛り上げたことが大きかったといわれます。

当時は家を守る良妻賢母が女性の理想とされていました。女性は家に従属する嫁であり、家事や育児、舅の世話に追われ、自由な外出もままなりません。

ところが、国防婦人会に入れば「お国のため」という大義名分の下、家から離れ、さまざまな活動に従事できます。活動内容からしても自分が社会の役に立っているという実感を得ることができる。そして、組織の中で役職などもあてがわれ、後輩指導やマネジメントなど、疑似的な社会経験が果たせます。まさに、自由と承認が、彼女らを婦人会へと奔らせたのでしょう。