(2)政治的マニフェスト説の無理
自衛隊を容認しつつ、憲法改正をせずに済ませる理屈もないわけではない。それは、憲法9条の法規範性を骨抜きにする「政治的マニフェスト説」を採用することである。1953年に英米法学者の高柳賢三が唱えたこの説は、「字句に執着してナショナル・セキュリティを置きざりにするような憲法の解釈は正しい解釈ではない。(中略)社会学的解釈によれば第二項は『平和への意志』を表した修辞的表現でかざられた国際政治的マニフェストにすぎぬのである。従って第二項の一々の字句からはなんら法的効果は発生しない」((高柳賢三「平和・九条・再軍備」ジュリスト25号、1953年、5ページ)とするものだ。
近年、憲法学の泰斗・芦部信喜がその晩年に、必要最小限の自衛力を当分の間認めるため「政治的マニフェスト説の今日的意義を再検討しなければならないのではなかろうか、私はそう考えるようになりました」(『芦部信喜先生記念講演録と日本国憲法』信山社、2017年、31ページ)と述べたことで、この説はふたたび注目を集めている。
安全保障政策の決定権を裁判所に担わせていていいのか
しかしこの政治的マニフェスト説は、憲法条文の明文改正を避けるための方便としての性格が強く、国内最大の実力組織である自衛隊の存在やその指揮権や権能が、憲法に明記されないまま放置する結果をもたらす。その結果、国家の基本構造を定める法規範という意味での、憲法(Constitution)の意義を没却させてしまう。したがって私はこの解釈を採用できない。
(3)安全保障政策は議会制民主主義に委ねるべき
私が自衛隊の憲法への明記を主張するもっと根本的な理由は、議会制民主主義のプロセスと司法プロセスとの間の役割分担という、民主主義国家の原理的問題に関わる。
国家の存亡に関わる安全保障政策は、憲法規定で厳格にタガをはめて裁判所の判断に委ねるべきではなく、議会制民主主義のプロセスに委ねるべきであると私は考える。たとえ憲法規定のタガが存在するといえども、選挙で選ばれた国民の代表ではない司法機関=裁判所が、国の安全保障政策に責任を持てるはずがない。