自衛隊の明記が必要な3つの理由

自衛隊の存在を合憲とする憲法9条解釈が不可能なわけではない。にもかかわらず私が改憲による自衛隊の明記を主張する理由を、この場を借りて述べておきたい。さもないと、改憲総選挙で憲法に関する民意を集約すべきだという本稿のここまでの私の主張の基礎が不明確だからだ。

破壊された、ウクライナ・ブチャの公園
写真=iStock.com/Lydia Sokor
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(1)非武装無抵抗の無理

まず筆者は、憲法9条は絶対的平和主義を定めた条文と解釈している。その憲法9条は、「一切の戦力」の放棄を命じることで、他国からの武力攻撃に際して、国民に無抵抗と他国軍隊による暴虐の受け入れを強いる結果となる。あまりに非現実的で非人間的な規定である。

非武装無抵抗の絶対的平和主義を定めた(と解釈するならば)憲法9条は、「『殺されても殺すな』という峻厳な責務、すなわち、侵略者によって同胞・家族が殺され自己も殺されそうな状況に置かれても、対抗的暴力行使によって敵を殺し返すことを禁じ、あくまで平和的手段で抵抗するという、苛烈な自己犠牲を伴う非暴力抵抗の責務を、国民全体に課す」(井上達夫『立憲主義という企て』東京大学出版会、2019年、229ページ)ものであり、通常人に「道徳的英雄(moral hero)に課される責務」(同書)を負担させるものである。

憲法9条を絶対的平和主義と解釈するならば、それはパルチザン戦の遂行または非暴力不服従という「善き生」を人々に強いることになり、立憲主義のプロジェクトと整合性がとれないので同条を「準則」ではなく「原理」と解すべきという、憲法学者の長谷部恭男の所説(『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年、166~172ページ)も、この脈絡で参照されるべきであろう。憲法9条は、通常人からなる国民にはもともと無理なプロジェクトなのである。