裁判所は結局、国家の存亡に関わる高度に政治的な問題については憲法判断を回避するという「統治行為」の法理を採用するほかない。裁判所に判断可能なのは、その能力と役割からして、安全保障政策が議会制民主主義のルールやシビリアンコントロール(文民統制)のルールにのっとって決定および遂行されているかどうか、ということだけである。
一国の安全保障政策をコントロールするのは裁判所であるべきなのか、それとも民主主義プロセスであるべきなのか、という論点は、従来あまり意識されてこなかった。憲法に自衛隊を明記するということは、このような原理的部分での転換を意識することになるだろう。
今こそ国民が「主権者」としての責任を果たすとき
私たち日本国民は、憲法によって主権者の地位を授けられながら、今日まで重要な政治的決断を先送りするという「非主権者的」な態度を甘受してきた。そして自衛隊に安全を確保してもらいつつ、その存在にふさわしい地位を憲法に書き込むことを避けてきた。
それは主権者として無責任というものだ。今こそ非主権者的態度を脱却し、自衛隊に憲法上の地位を授けるのが、私たち国民の主権者としての責任である。