駿河復帰の夢は叶わず、表舞台から姿を消す

ここまで氏真は、家康の領国統治や奥向き構造、さらには外交関係にも大いに助力していたとみることができる。かつての経験や教養が、十分に家康に寄与し、それを支えていたといえよう。

徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(図版=大阪城天守閣/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかし同10年に信長により武田家が滅亡し、駿河が家康に与えられて以降、氏真の動向はあまり確認されなくなる。家康は信長に、かねての約束から氏真に駿河半国を与えられるよう申請したらしいが、信長からは却下された。これにより氏真の駿河復帰の夢は完全に絶たれることになる。

以後は家康のもとで、その家臣として生涯を過ごすほかはなくなった。それでも氏真の存在は、高い教養と政治的地位から、対外関係において貢献したことであろう。

氏家が京都に移っても、2人の交流は続いた

家康は駿河を領国化すると、本拠を駿府に移した。これは当時の領国全体を統治するうえでの利便性によるであろうが、その一方で海道筋3カ国を領国とするようになり、いわば今川家に取って代わった存在になったことで、かつての今川家の本拠であった駿府こそが、その本拠に相応しいという観念もあったことであろう。

少年期から青年期に、今川家の最盛期を駿府で過ごしたかたちになる家康にとって、駿府こそが、理想の本拠という認識があったかもしれない。

しかし同18年に北条家滅亡をうけて、家康の領国が関東に転封されたのを機に、氏真は家康の側から離れて、京都で生活することになった。家康からは所領を与えられていたらしいから、家康から離れたわけではなかった。しかも翌年から、家康は、当時の政権の羽柴(豊臣)政権に従う「豊臣大名」として、嫡男秀忠ともども京都・大坂での居住を基本にした。

これによりむしろ、家康は、日常的に氏真との交流を維持したとみることもできるであろう。そして何よりも秀忠の上臈として氏真妹の貞春尼が存在し続けていた。徳川家と今川家は、日常的に繋がっていたのである。