戦後日本サブカルチャーの共通点
戦後日本のサブカルチャーは、敗戦と科学技術立国化・高度成長によって急速に変貌していく世界を受け止めるための心理的な装置として機能した。
つまり、それまでは信じられていたアニミズム的な「神」は、日本を戦争に導いた原因とみなされ、それまでのように公的には本気で信じることを表明することは難しくなった。
しかし、文化には慣性がある。たとえば宮崎駿監督『となりのトトロ』(1988年)や『もののけ姫』(1997年)、『千と千尋の神隠し』(2001年)ではアニミズムが扱われており、国民的なヒットとなったが、このヒットから考えるに、おそらく戦後日本の変貌する世界のなかでも、「神」的なものを求める心はあると解釈されるべきなのだろう。
農業中心から工業中心の国家へと移行し、全国各地の風光明媚な自然は破壊され、工業地帯や原発などに変貌していった。インフラが整備され、生活のなかに家電が取り入れられていく。農耕生活に付随していたさまざまな信仰や儀礼も、都市生活で失われていく。
そのような急速な変貌を背景にしなければ、日本のサブカルチャーが「科学・工業」と「神・超自然」を執拗に扱ってきた意味は分かりにくいだろう(『ゴジラ』『鉄腕アトム』『ドラえもん』『機動戦士ガンダム』『新世紀エヴァンゲリオン』と、枚挙に暇がない)。
『ファイナルファンタジーVII』が、極端なまでに「工業」を描き、「星命学」という自然信仰と死者実在論の混じったような思想を提示してきたのは、このような戦後日本の歴史を背景とするサブカルチャーの系譜で理解すべきだろう。
折しも90年代は、戦後日本の高度成長やバブルが崩壊を迎える時期であり、終末論的な予感のなかで、戦後の歩みを批判的に反省する向きもあった(物質的な豊かさを追求した結果の、精神的な虚しさなどを)。
ゲームで反資本主義をテーマにする皮肉
本作に影響するもうひとつの重要な思想は、60年代のカウンターカルチャーである。
ヒッピーたちは、権威やシステムに反抗し、科学や資本主義を否定し、ドロップアウトして自然のなかでスピリチュアルなものを大事にしようとした。その影響は日本にも及び、多くのサブカルチャーのなかで展開された。その思想が、おそらくは『ファイナルファンタジーVII』にも入りこんでいる。ネイティヴ・アメリカンから着想を得たと思しき、コスモキャニオンなどの設定が、その証拠だろう。
とはいえ、科学技術や合理主義で覆い尽くされていく世界から疎外される自然や霊性の感覚を、科学技術の産物であるゲームで提示するということに、一種のアイロニーがある。
ゲームはそもそも機械である。だが、そのなかにプレイヤーは、自然や霊性、つまりはファンタジーを感じるのだ。これが、ポストモダン以降、ゲーム世代の感覚であろう。文化人類学者アン・アリスンの言葉を借りて、それを「テクノ─アニミズム」と呼んでもいい。