人間はどんな死でも死にうる存在である

火葬場に行くと、ずらっと並んだ焼却炉の前で、こちらはけっこうな人数、あちらは2、3人ということがある。見送る人が数人か、かわいそうに、と思ってはならない。人数の多寡、規模の大小など、大したことではない。それに、こっちの多数はほとんどが義理、あちらは真に親密な人、ということだってあるのだから。

勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)

人間はどんな死でも死にうる存在である。わたしみたいに真の厳しさを知らず、ぬくぬくと暮らしている人間がいってもなんの説得力もないが、わたしはそう考えている。むろん、嫌な死に方というものはあるが、それをいってもどうにもならない。自殺でもしないかぎり、自分で死に方は選べないからである。

わたしはどんな死に方をしても、文句はいわない。山ほど後悔するかもしれないが、文句はいわない(いえないのはそのとおりだが、いえたとしても)。ほとんどの死は偶然であり、自余じよのことは、わたしが自分で決めたことだ。孤独死という事実はたしかにあるが、「孤独死」という言葉は愚劣である。その死を見る視線も愚劣。

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