無になる人間が名を残すことに意味はない

わたしが自分の死で考えることは、「終活」とはなんの関係もなく、たったひとつ。残る者に金銭の負担をさせないように、葬式無用、戒名不要をいっておくだけである。墓はいらない。延命治療はもちろん断る。骨の欠片を小箱に入れて、手元供養でいい(「たったひとつ」ではなかったのか)。

残りの大量の骨の処分が厄介だろうけど、なんとか処分してもらう。散骨など邪魔くさい。葬儀をケチったと人に思われないように、これは故人の意志だということをはっきりさせておく。あとはテキトーでいい。

ほんとうは手元供養もいらない。記憶として残るだけで十分である(それも死んでしまえばわからないが)。もし記憶に残してくれる人がいるとしても、その人が死ねば、そこで終わりである。なにをどうしても、人間はいずれ無になるのである。レジェンドとして名を残しても、当人にとっては無意味である。「終活」などは、商売人の言葉にすぎない。

「孤独死」というはやり言葉への違和感

孤独死という実体はある。昔からあるはずである。ひとりぼっちの高齢者もいまにはじまったことではあるまい。わたしが住んでいる近所に、静かなおじいさんがひとりで住んでいて、会えば挨拶をしたが、いつの間にか介護施設に入所したらしい。

わたしがはじめて「孤独死」という言葉を知ったのは、NHKの特集番組だったと思う。だからどうした、と思った。番組はもちろん露骨にではないが、みじめな死、人間としてあってはならない死、というメッセージを出していたように思う。だから孤独死を防ぐにはどうしたらいいか? と。悲惨といえば悲惨、みじめといえばみじめ、哀れといえば哀れな、だれにも看取られない死。この番組を観た人の多くは、ああはなりたくないな、と思ったのではないだろうか。

夕暮れ時、ビーチのブランコに一人で座っている男性
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孤独死がみじめなら、ではどんな死であればいいのか。5千人もの人が参列する大葬儀か。ばかばかしい。親族に看取られる大往生は幸せな死か。いったい死に、幸せな死、などあるのか。こちらは孤独死、あちらは大葬儀。世間は当然、大葬儀のほうを評価するが、そんなことは、生きている人間による「哀れな死」と「見事な大往生の死」という、死の品評にすぎない。死んだ人間にとっては、おなじである。