ベストセラーをきっかけにした「定年後」ブーム
楠木新の『定年後 50歳からの生き方、終わり方』という本が異例のベストセラーになったことを受けて、「『定年後』に輝くための7カ条」(『週刊文春』2017年9月14日号)という記事と、「大特集 定年後の常識が変わった」(『文藝春秋』2017年10月号)という記事がたてつづけに出た。
定年後のなにが「輝く」わけでもないし、「定年後の常識」というものがあるにしても、そんなものは自動的に変わりゃあしません。変えるか変えないかを決めるのは、あくまでも自分である。
また、『ライフシフト 100年時代の人生戦略』というベストセラーの影響で、早くも尻馬に乗って、これからは「人生百年だ」なんてことをいう人も出てきたが、そんなことは一個人にとっては、どうでもいいことである。かれらは売り上げを伸ばそうといろんなエサを垂らすが、われわれが、いちいちそんなものに食いつく義理はないのである。
「終活」という言葉ほどバカなものはない
なにがバカくさいといって、「終活」という言葉ほどバカなものはない。クラブ活動が「部活」になったのは正当である。「就職活動」が「就活」なのもいい。「婚活」は「結婚活動」か。もうここでだめなのだが、まだ許せなくはない。
「妊活」とはなんだ。「妊娠活動」か。アホか。そんな言葉はない。「不妊治療」なら「妊治」だが、それじゃだめだ。「活」がないと。で、ただ「活」をつけたのだ。
「終活」にいたっては、ただ調子に乗っただけである。「終焉活動」などはない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。「活」をつけたかっただけである。便利だし、わかるだろ、というわけである。葬儀屋の陰謀なのか。
自分の最後をどうしようか、と考えることは無駄ではないが、「終活」という言葉に踊らされて、おれもなにか考えなくてはな、と焦ることはあほらしい。エンディングノートを書き、尊厳死協会に入会し、生前墓を建てて、さてあとはなにがあるんだ? と計画を立てておくのは、人それぞれだから、他人がとやかくいうことではない。自分らしい個性的な死を演出しようと考える人が出てきてもしかたがない。そういう人は「終活カウンセラー」なんかに世話になるのだろうか。