「老後のいまが楽しい」はいったもん勝ち
すべての甘言は疑似餌である。食えたものじゃないのである。「輝く」なんてバカ言葉を使っている時点で、すでにアウトである。わたしはそんな子ども騙しのエサにだれが食いつくかね、と思うが、おいしそうなエサだと食いつく人がいないわけではない。ウソでもいいから、夢や希望を与えてくれ、と思っている人である。
ウソでもいいから、はなかろうと思うが、そんな人はいるのである。安くない金を払って本を買ったのだから、せめて夢や希望を与えろよ、本にはオレたちの知らない秘策が書いてあるものだろ、でなきゃただの買い損じゃないか、というのだろう。
「わたしは老後のいまが人生で一番楽しいよ」という人がいてもしかたがない。どういうつもりか知らないか、本人がそういうのだから、止めようがない。毎日が楽しい、充実しているよ、という人もいるだろう。そういうことをいうのはその人の勝手だし、いったもん勝ちである。
しかしそんなことなら、わたしだって、毎日充実してますよ、といえるわけである。これを読んでいるあなただって、まあおれも充実してるといえばそうかな、といっておかしくはないのである。なんだっていえるのである。
「どうでもいい」と思ったほうが、すっきりする
ただし、そういったからといって、なにがどうなるわけでもない。味気ない生活が、そういったとたんに楽しくなるわけではない。それに、もしかれらがほんとうに楽しい生活を送っているにしても、かれらはあなたやわたしではない。なんの関係もないのである。
本を書いている人が作家だ学者だコンサルタントだといって、人生の達人であるわけがない。そんな人間はいない。あたりまえである。かれらも自分の人生を生きるのに精一杯なのだ。
もし「豊かな生活」や「充実した人生」を送りたければ、自分でつくるしかない。一人ひとり「豊かさ」や「充実」の中味がちがうからである。あなたの人生を知っているのは、あなた以外にはいないのである。
しかしほんとうに「豊かな生活」とか「充実した人生」って、なんですかね? 言葉の綾だというのはわかるが、中味のない、ただ聞こえのいいだけの空語ではないのか。そんなものはどうでもいい、と思ったほうが、いっそすっきりするのではないか。